高校を3カ月で退学して、バイトもせずフラフラ
―――そもそもダンサーになったきっかけは何だったのでしょうか?
NAOYA もともと高校を3カ月で退学して、地元のヤンチャな人たちと街でたむろしたり、バイトもせずにフラフラして、どうしようもない生活をしていたんです。フリーターですらなくて、いわゆるプー太郎ですよ。
そんなときに出会ったのが、映画『フラッシュダンス』と『ワイルド・スタイル』。たまたまこの2つの映画を見て、ダンスに興味を持ちました。その後、原宿の歩行者天国、通称ホコ天で竹の子族やロカビリーが流行っていたときに、僕らもチームを作って踊るようになったんです。ただ、当時はインターネットやダンス教室もない時代。仲間内で海外のダンスビデオを貸し借りしたり、六本木の米兵さんばかりが集うクラブに出向いて最新のステップや技を参考にしたりと、どうにか見よう見まねで、必死にヒップホップを自分のものにしていきましたね。
最先端のダンスを知らしめたい!
―――まだダンサーという職業すらなかった時代ですね。その後、ZOOとして活躍する中で大変だったことはありますか?
NAOYA 当時はまだ、日本のダンスシーンにヒップホップが浸透していなかったけれど、僕らはニューヨークやLAなどアメリカの最先端のヒップホップを真っ先に踊っていたし、海外で何が流行っているのか知っていました。人前で踊るのも「日本の人たちに最先端のダンスを知らしめたい、日本人でも黒人に負けないくらいヒップホップを上手く踊れる連中がいることを知らしめたい 」という気持ちしかなかったんです。
しかし、ZOOとして曲を出すときに、レコード会社やプロダクション、周りの大人は誰も最先端のヒップホップ音楽を知らないし、少し大衆向けにまろやかにしないといけない。僕らがやりたい音楽が理解してもらえないもどかしさや、ジレンマ、スタッフの人たちとぶつかることもしょっちゅうでした。
ただ、今にして思えば相手も売り方を知っているプロ。スタッフが言っていることは当然ですし、だから売れたという部分はあったと思います。『DADA』では僕たちが好きなヒップホップ音楽で自由に踊らせてもらえた。あと「Choo Choo TRAIN」や他のZOOの曲の振り付けも、周りの大人はヒップホップが分からないので僕たちに任せてくれたし、そこでバランスが取れていたかもしれませんね。 誤解されたくないのですが、「Choo Choo TRAIN」や他のZOO楽曲もポップスとしてとても素敵な曲だと思っています。
写真=深野未季/文藝春秋