患者が「会いたい人」が登場する
さて、先ほど紹介した「お迎え」体験の内容のなかで、「存命だが、その場にいなかった人物」が、「お迎え」にきたという事例に着目してください。これは、ある意味で注目に値する現象でしょう。というのも、ホスピス運動の生みの親の1人で、臨死体験研究の第一人者でもあったキューブラー・ロスは、〈出迎えてくれる人はかならず、心から愛している人で、しかも、たとえ一分でも先に死んだ人です〉としたうえで、こんな話を紹介しているからです。
〈アメリカン・インディアンの女性の例です。彼女は私に、居留地から何百キロも離れたところで妹がひき逃げされたときのことを話してくれました。後ろからきた車が止まって、妹を助けようとしたけれど、妹はその見知らぬ人に「自分は父親といっしょだから大丈夫だ」と、かならずかならず母親に伝えてほしいと懇願すると、息を引き取ったそうです。じつは、彼女たちの父親はその一時間前に、事故現場から千キロ離れたインディアン居留地で死んでいたのでした。妹がそれを知っているはずはありませんでしたのに〉(『「死ぬ瞬間」と死後の生』中公文庫)
「出迎えてくれる人は、たとえ一分でも先に死んだ人」というロスの主張に対して、本調査では「そこにはいないが、まだ生きている人」も、患者さんの「お迎え」体験のなかに登場しています。亡き肉親や友人の登場が多くを占めるとはいえ、「お迎え」体験はこうした「生きている人」の登場も含め、当の患者さん自身の願望がどこかで映し出された現象ではないかと、私は思うことがあります。
つまり、患者さん自身の心の奥深くに、会いたい人、話したい人、見たい風景・情景などが潜んでいるのではないか。そう考えると、亡くなった肉親が現れるケースが、なぜ多いのかもわかるような気がするのです。
「お迎え」体験で家族が現れやすい理由
人はこの世に生まれた後、いちばん近くにいる者の強い影響を受けて、自我や人格を形成していきます。そのいちばん近くにいるのが、両親であり、祖父母であり、兄弟や親戚、友人に他なりません。
人というのは、生きている人よりも亡くなった人のことを真剣に考えるところがあります。亡くなった人に対しては、元気だった頃以上にその人のことを思い出します。
そうしたなか、今度は自分が人生の終末を迎え、死を意識するようになる。それはこれまで形作られてきた「自分」という存在(自我)の消滅を想像させます。だからこそ衰弱し、薄れゆくその意識のなかで、人格形成に強い影響を与えた肉親などに、静かに思いを馳せるのかもしれません。