平匡とみくりの周囲には、同性愛者をはじめとする、さまざまな社会的マイノリティたちが二人を見守るように存在する。高卒のシングルマザーである親友のやっさんが、夫の浮気に三行半を叩きつけて八百屋で働いているのは、女性の自立や労働がアカデミズムやホワイトカラーの専売特許でないことを示しているし、独身キャリアウーマンの百合ちゃんと年下の涼太は、平匡とみくりを反転させたようなオルタナティブな二人だ。
そうした人々との交わりの中で、「連帯は可能か」「社会を構築することは今もできるのか」と作品は問いかける。それは平匡とみくりというマジョリティの中の苦難を象徴する2人に対して、マイノリティを描く作家が届ける花束のように見える。
「『好きの搾取』です」ファンにとって衝撃だった最終回
最終回の前のラストシーンでみくりの口をつく「それは『好きの搾取』です」という言葉はドラマ史に残る名台詞だが、この作品は「契約結婚」というシステムが搾取のないあり方、合理的で先進的な姿だと喧伝するものではない。契約結婚そのものは、むしろ経済的に力を持つ側(この作品で言えばそれは歴然と平匡、男性の側である)が若い労働力を搾取できるシステムであるとさえ言える。
ある日、平匡が「新しい契約結婚の相手が見つかったから、あなたとの契約は解消しましょう」と言い出したとしても、みくりには拒否する権限がなく、また通常の結婚なら存在する慰謝料や財産分与という「退職金や違約金」を受け取ることもできないのだ。ある意味ではそれは「結婚の非正規雇用化」である。
物語が二人の「契約結婚」を描くのはそれが理想的な到達点であるからではなく、伝統的な結婚という「終身雇用」の中の不自由や不公正を照らすためであり、「好きの搾取」という言葉もそのために書かれる。契約結婚の中にある、終身雇用とは別の「契約の穴」を隠しているのは、お互いがお互いを思いやる平匡とみくりの善意と信頼だ。
善意に支えられたその連帯が甘い、欺瞞的だと指摘することは可能だ。平匡とみくりの二人は、契約と呼ぶにはあまりに相手のことを思いやり、譲り合いながら条件を設定するし、様々な背景を持つマイノリティたちは個々の差異の中でなんとかお互いの接点と連帯を見つけようとする。
だが、そうでもしなければ崩壊してしまうような危うい社会の中で僕たちは生きている。「逃げ恥」という作品の底に流れる善意のトーンは、巨大な災害の被災者同士が助け合い、生きる道を探す「災害ユートピア」と呼ばれる状態を僕に思い起こさせた。