1ページ目から読む
4/4ページ目

 じつはその数日前、前田は大阪での参議院の補欠選挙で共産党の候補者の応援に駆けつけ、集まった人々を前に、当選したら生放送でバンザイすると約束していた。このとき、番組の宣伝になるので「月曜の夜のテレビの生放送」と番組名は伏せ、放送当日に当選が決まり、番組内で約束を実行する際にも候補者や政党の名前は言わなかった。

 しかし、ある週刊誌がこの約束について記事にしたことから、ほかのメディアでも大きくとりあげられ、事態は急転する。その年の秋、前田は『夜のヒットスタジオ』の司会を降板させられたのだ。

前田武彦の自著『マエタケのテレビ半生記』

 この騒動は、前田自身が著書(※3)で書いているように、話に尾ひれがついて「共産党バンザイ」と叫んだとか、「公器を使って一党に偏した政治宣伝をした」などと受け取られたことに原因があり、政治的な発言が問題視されたというのとはちょっと違う。もちろん、前田がその後、他局のレギュラー番組からも次々と降ろされ、数年にわたってテレビから姿を消したのは、やはり異常と言わざるをえないが。

ADVERTISEMENT

 それでも、まだこの時代は、タレントの政治的言動を許容しようとする姿勢が、メディア側にも、視聴者のほうにもあったように思われる。したがって、芸能人の政治的発言はけっしてタブーではなかった(前田武彦にしても、テレビから干されていた時期にも、先の意見広告に名前を連ねたように、けっして政治に対してアクションをやめたわけではない)。しかし、現在はどうか。

世間が作る「芸能人の政治的発言をタブーとする空気」

 いま、芸能人の政治的発言をタブーとする空気があるのだとすれば、それをつくっているのは、メディアやスポンサーでも、為政者でもなく、むしろ世間一般だろう。しかも、いまや芸能人を仕事から干すのは、物理的にはるかに簡単になっている。多くの人々を動員可能なTwitterのハッシュタグは、その意味で諸刃の剣といえる。

 もし、政治について何らかの発言した芸能人がいて、それが気に入らないからと、誰かがTwitterなどでも呼びかけ、その人物を出演する番組やCMから降ろすべく放送局やスポンサーにクレームをつけたとする。

 たとえ降板にまでいたらなくても、先方はその芸能人を起用するリスクを意識するはずだ。そうした意識が、メディアやスポンサー側に広がれば、タブーは実体化し、政治的な発言をする芸能人は、降板させる以前に、最初から起用しない方向へと進むだろう。

 そうならないためにも、ヘイトスピーチでもないかぎり、あらゆる政治的な言動を許容し、何物にも縛られずに議論する雰囲気をつくる必要がある。もちろん、そこでは「あえて発言しない」姿勢も認められねばならない。社会の多様性もこうした寛容さから生まれるはずだ。

※1 『毎日新聞』1974年6月24日付夕刊
※2 『朝日新聞』1983年12月16日付朝刊
※3 前田武彦『マエタケのテレビ半生記』(いそっぷ社、2003年)