いいかえれば、バイデン政権下では、すべての問題が解決する解が提示されるのではなく、いわば政治の「ドラマ性」が奪われ、政治が退屈なものになっていく。しかし、元来政治とはそういうものではないか。政治空間においては、そもそもあらゆる問題が解決されるわけではないし、そもそもそうしたものが目標として設定されるべきではない。
しかし、過去12年、オバマ政権とトランプ政権下においては、政治が過剰に劇場化し、その結果、人々が全人格的にそこに自らを投入し、本来の政治のかたちをかなり歪めてしまった。
つまり、バイデンにできることがあるとしたら、それは政治をもう一度「退屈」なものにして、会話ができる状態を作りだすことではないか。この役割は、オバマにもトランプにも絶対に担えない。それは、いまこの瞬間にはバイデンしかできないことだ。
バイデンに求められたのは「トランプを葬り去ること」ではない
おそらくアメリカ人がバイデンに求めたのは、トランプを糾弾して政治的に葬り去ることではない。それは、また新たな政治的憎悪のサイクルを生むだけである。むしろ、アメリカがバイデンに求めたのは、普通であることを復権させること、そしてそのことに対する強い支持が、バイデンの勝利の背景にあると考えた方が、「バイデンという選択」の意味がよく見えてくるのではないか。
バイデンのボスのオバマは、アメリカを統合するとの大きな政治的野心をもって、ホワイトハウスに乗り込んだ。しかし、オバマへの反応は、大きな政治的分断を生み出し、そこからトランプ主義が発生した。オバマは、2004年の民主党全国大会で掲げた「ひとつのアメリカ」を実現するという点においては、完全に頓挫している。
そのオバマの下で副大統領をつとめたバイデンが、仮に政治をもう一度退屈なものにして、合意できることに関して合意し、対立点を先送りしつつ、少しでもその合意の幅を大きくしていくことができれば、それはアメリカにおける政治のあり方が、少しずつではあるが、変わっていけることの兆候とみなされるかもしれない。
これができれば、78歳にして熱狂度ゼロで国民に選ばれたバイデンは、期せずして歴史に痕跡を残す、いまこの時代に必要不可欠な大統領として記憶されることになるかもしれない。
その可能性は決して高くはない。時間も2022年の中間選挙までしかない。その後は2024年に向けた力学が動き出す。しかも、1年目はコロナ対策にかかりっきりにならざるをえないだろう。制約については、すでに色々な場所で論じられている。
しかし、政権発足だからこそ、バイデンの「可能性」に目を向けることに意味があるのではないだろうか。