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父や兄から暴力を受け……ひとりの少女を“牢獄”から救ったのは「知識」だった

高橋源一郎が『エデュケーション』(タラ・ウェストーバー 著)を読む

2021/01/24
note
『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』(タラ・ウェストーバー 著/村井理子 訳)早川書房

 深く考えさせられ、そして、勇気を与えてくれる本だと思った。そして、いまこそ読むべき本だとも。

 著者のタラ・ウェストーバーは、1986年にアイダホ州で生まれた。アイダホはロッキー山脈の中にあり大部分が山岳地帯だ。タラは、国家の恩恵を一切受けないことを信条とする「サバイバリスト」の父(そして、その思想に深く感化された)母の下に育った。だから、彼女には出生証明書もなく、学校に通うこともなく、捨てられた廃材を拾う一家の作業へ参加することが、家での彼女の役割だった。父はモルモン教の信者でもあり、神の言葉が唯一信じられるものだった。世界はイルミナティという組織が支配していて、そこから逃れる必要がある、だから、父は、自分と共に家族を小さな共同体に幽閉したのだ。タラは、狭い世界で呻吟した。そこから逃れようとする意志は、父や兄から加えられる、身体的・精神的な暴力によって押さえこまれた。この本は、タラというひとりの少女が、どうやって、父が作り出した牢獄から脱出することができたのかを記した記録ということになる。

 著者を救い出したもの。それは、当人の意志、なによりも、鮮烈な「知識」への欲望だった。彼女は、たったひとりで本を読むことから始めた。母からも教わることがあったが、ほぼひとりで学んだ。自分が自分を教える教師になった。マークシートがなになのか知らないまま、大学入試検定試験を受けて、大学に入った。それが初めての学校だった。ほんとうになにも知らなかった。世界がどうなっているのかも。初めの頃の授業で知らない単語があり、その単語の意味を訊ねて、周囲を唖然とさせた。彼女は知らなかったのだ。「ホロコースト」という単語を。

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 そうやってすべてが始まった。ゼロから? いや、途方もないマイナスから。彼女は休まなかった。なぜなら、知りたかったからだ。なにを? 世界がどうなっているのかを。自分とは何者なのかを。ひとたび動き始めた、強靱な魂は、やがて大空へ飛び立った。大学に入るまで、学校というものに通ったことがなかった少女が、ケンブリッジに入学して、教授を驚愕させるような論文を書くに至るのである。

 わたしは、関東大震災時、「大逆」の罪に問われ、拘束され、獄中で自死した金子文子を思い出した。文子もまた、戸籍を持つこと、学校に通うことを拒まれた少女だった。けれど、やはり独力で学び、日本語による白眉の自伝を獄中で書き上げたのだ。

 確かに、大学はタラを変えた。だが、その「大学」は、目に見える建物、教師のいる場所のことではない。自由への道を探すすべての魂が学ぶ場所はすべて「大学」となる。わたしたちは、みんな、その「大学」を必要としているのだ。

Tara Westover/1986年、米国アイダホ州生まれ。ハーバード大学公共政策大学院上級研究員。自らの半生を綴った本書は主要メディア、ビル・ゲイツ、オバマ夫妻に絶賛され、全米400万部超のベストセラーとなった。
 

たかはしげんいちろう/1951年、広島県生まれ。作家。2012年『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。

エデュケーション 大学は私の人生を変えた

タラ ウェストーバー ,村井 理子

早川書房

2020年11月17日 発売

父や兄から暴力を受け……ひとりの少女を“牢獄”から救ったのは「知識」だった

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