時代もののバリエーションがなくなってきたら舞台にする時代をずらせばいいんでしょうけれど、そうすると時代考証をまた一から詰め込み直さなくちゃいけなくて。実は私は、江戸時代のなかの50年間くらいの狭いところで書いているんです。そこから時代を動かすとなると、全部勉強し直さなきゃならない。
本当は現代もので、シリアスなものを書きたいんですけれど、なかなか書かせてもらえないですね。SFやファンタジーも、一般小説で書かせてもらえるところは限られてくる。「どうしても」って熱意を持って訴えれば書かせてもらえるんでしょうけれど。
――近未来を舞台に、犯罪の加害者に被害者の体験を追体験させる装置が登場する『刑罰0号』などは、珍しい依頼だったんですか。
西條 あれはデビューして間もない頃、最初の1話だけを短篇で書いて、だいぶ後になってから「続きを書いていい?」と言ったら「まあ、いいよ」と言ってもらえました。徳間書店はわりとそういうものを書かせてくれるんです。
コロナ禍で「読者あっての作家だな」と実感
――今、執筆中のものは。
西條 電子版の雑誌「ジャーロ」の今月末に出る号から、「バタン島漂流記」という連載が始まります。江戸時代って漂流した船がびっくりするくらい多いんですね。もともと『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』が好きだったので、自分でも書いてみたかったんです。
これは同じ江戸時代でも私がよく書く時期から100年から150年くらい前の、まだ深川もない頃の話なので、江戸の地図を確認し直したりしています。船のことも海のこともまったく知らないので、本当に大変です。それでもやっぱり、新しいことをやっているほうが楽しいですね。
――常に挑戦をしていたい、と。
西條 飽きるのが一番怖いんです。自分が飽きるのもそうですけれど、読者が飽きるのが怖い。昨日(1月20日)の会見でもちらっと言いましたが、コロナ禍で社会と隔絶されてみて、改めて「読者あっての作家だな」と実感しました。決しておもねるということではなく、文字という媒体は読む人によって頭で描くイメージも全然違うだろうし、読者に読んでもらってはじめて完成する媒体だなと、改めて感じています。
――この先、どんな作風のものを発表していかれるか楽しみです。まずは、どんな受賞記念エッセイをお書きになるのか楽しみにしていますが(笑)。
西條 気が重いです~。誰か書いてくれないかな(笑)。
写真=鈴木七絵/文藝春秋