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「オウムのサリンを作った男」公判で見えた殺人犯に絶対的に“欠けているモノ”の正体

『私が見た21の死刑判決』より#25

2021/02/20

source : 文春新書

genre : ニュース, 社会, 読書

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 1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与したとされる信者が次々と逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。 サリンを撒いた実行犯たちに死刑判決が下される中、化学兵器サリンの生成者である土谷正実は「黙秘」の姿勢をとり続けていた。検察は何も語らない土谷に対して、事件の遺族を証人として呼び寄せ、遺族感情を聞かせていった。

 その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。後編を読む)

◆◆◆

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 その直後のことだ。

 入れ代わりに、当時21歳の娘を亡くした母親が法廷に入ってきた。どこかひ弱そうでありながら、それでも正面の裁判長を見据えて、とても丁寧な話し方をする女性だった。

 事件当日、午前11時前に夫から電話が入った。娘が会社に到着していないという連絡だった。いつものように、元気に「行ってきまーす!」の声に「じゃあね」と送り出した娘だった。地下鉄で事故が起きていることを知らなかった母親は、テレビを観てはじめて事態を知る。被害者が大勢出ていて、あちらこちらの病院に運ばれていた。そこに、被害者の名前が出ていた。

 まさか、自分の娘が巻き込まれているとは思わず、テレビの速報ばかりを眺めていた。しかし、娘の名前は出てこない。

 やがて娘のことが気になり出した母親は、報道機関から病院、警察に連絡を入れて、娘の所在を確認してまわった。そのうちに、聖路加国際病院に身元不明の20代の女性が運ばれたことを知った。それではないか、と直感した母親が病院へ直行する。そこには、人工呼吸器をつけて集中治療室に横たわる娘がいた。

©iStock.com

 彼女は心停止で病院に運ばれて来ていた。意識は戻っていなかった。心停止が4分以上続くとほとんど意識は戻らない、たとえ戻っても脳障害が残ると知らされていた。

「意識が戻っても、筋肉が硬くなって歩けなければ困ると思い、手とか足とかさすって、ずっと話しかけていました」

 しかし反応はなかった。

「なかったけど、涙が流れてきていました。私が話しかけると……。それは、聴こえているからではないことは、いま考えるとわかりますが、それでもその時は、聴こえて流していてくれるんだと思っていました」