1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与したとされる信者が次々と逮捕された。
そして開かれた裁判。サリンを撒いた実行犯たちに死刑判決が下される中、土谷正実と一緒にサリンを作った中川智正は「黙秘」を続けていた。
その判決公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでの記録を、青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から、一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。前編を読む)
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土谷正実を補助するように、いっしょにサリンを作った共犯者に、中川智正という人物がいた。
彼は京都府立医科大学を出た医者だった。
在学中に自室でいわゆる“神秘体験”をする。その時に「この為にお前は生まれてきたんだ」という教祖の声を聞いて(と、本人は法廷で語っている)教団に入信。出家後はわずか2カ月で坂本弁護士一家殺害事件の実行メンバーに選抜されている。事件では、妻の都子さんの首を絞めて殺害。1歳2カ月だった長男の龍彦ちゃんの鼻腔を塞いで窒息死させている。
その後は、サリン製造はもとより、松本サリン事件では現場に向かい、VXによる殺人事件や、信徒殺害、目黒公証役場事務長監禁致死事件などに関わり、多くの人の命を奪ってきた。起訴された事件からすれば、死刑は避けては通れないところだった。
その中川は、裁判に臨んで事件の事実関係について証言することをずっと拒んでいた。教祖はもとより、誰の公判に呼び出されても、一切を黙秘して語ろうとはしなかった。
ただ、いっしょにサリン生成中に事故で死にかけた土谷正実とは仲がよかったらしく、互いの法廷に証人として呼び出されていくと、満面の笑みで無言のうちに再会を喜んでいた。でも、ふたりは事件について一切を語らなかった。
太っていて、いつも飄々とした態度でいた中川の法廷に、あるときひとりの弁護士が証人として出廷した。名前を滝本太郎といった。滝本弁護士は、当初、坂本弁護士から、いっしょにオウム問題に取り組まないかと誘われていたが、これを断っていた。ところが、坂本弁護士一家が忽然と姿を消してしまった日を境に、オウム問題に積極的に関わるようになる。全ては、一家の救出が目的だった。それを敵対行為とした教団では、滝本弁護士の暗殺を計画。教団を相手にした訴訟で甲府地裁を訪れた滝本弁護士の車にサリンを滴下し、交通事故を装って殺害しようとしたのだった。幸い体調が悪くなっただけで一命を取り留めたが、この暗殺未遂事件も立件され、その実行グループに、やはり中川がいた。その被害者として、法廷に呼び出されたのだった。