「裁判所にも聞いて欲しいことがあるんですが」
検察官の質問に答えていく滝本弁護士。事件当日のことを淡々飄々と語り、中川の弁護人による反対尋問もまた、当日の行動と症状の確認程度で済んでしまった。裁判官、裁判長においては、何の確認も質問もないまま、尋問が終了しようとした、その時だった。
裁判長の「じゃ、ご苦労さまでした……」と退廷を促す言葉を遮るように、慌てて滝本弁護士が言った。
「あ、あの! 被害感情は聞かないんですか!?」
一瞬にして傍聴席からドッと笑いが起きた。サリンを外気取り入れ口から滴下されていたとはいえ、その車で甲府地裁をあとにすると、長野県内の別荘地を物色してまわり、それから神奈川県の自宅に戻っている。視界が暗くなるというサリンの中毒症状は出ているものの、あまりに元気だったものだから、サリンを被曝して殺されかけた被害者だということを、法廷中の誰もが忘れていた。
「裁判所にも聞いて欲しいことがあるんですが」
さっきまでの飄々とした受け答えとはうって変わって、焦って懇願するような態度だった。
それを見て、証言を引き取ったのは、中川の弁護人だった。中川の背後から立ち上がって、「それじゃあ、どうぞ」と、反対尋問の延長として促したのだ。
滝本弁護士は、それからおもむろにズボンのポケットから、書いてきたものを取り出すと、それを証言台の前に開いておいて、静かに語りはじめた。
「結論から言うと、中川智正被告について、厳正な処罰を望みます。しかし、死刑にはしないよう、強く望みます」
急にその雰囲気にのまれて、法廷が水を打ったように静かになった。
それから「顔を合わせるのは今日がはじめて」と言った中川被告の顔を、時折じっと見つめながら、話しかけるように続けた。