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「呼吸にも気を遣わなければ…」福島第一原発の“決死隊”に命じられた想像を絶する作業の実態

『フクシマ戦記 上 10年後の「カウントダウン・メルトダウン」』より #1

2021/02/24

source : ノンフィクション出版

genre : ニュース, 社会, 読書

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伊沢郁夫という男

 伊沢郁夫は、地元・双葉町の農家の長男として生まれた。

 少年時代、自転車に乗って、福島第一原発のところまで来て、友達と遊んだ。30メートルの断崖の上にある広大な敷地だった。

 そこから太平洋を眺めるのが好きだった。いつ来ても海の色は暗く、水平線の彼方は白く光っている。

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 太平洋戦争末期、陸軍の航空訓練基地である「磐城陸軍飛行場」の跡地だった。ここで、特攻の飛行訓練が行われた。そこから若いパイロットたちが南方に死地を求めて、飛び立っていった。その飛行場のひび割れた、だだっぴろいコンクリートの跡が広がっている。

 小学校高学年になったとき、ここで突如、建設工事が始まった。林の中に何十棟という平屋の家が忽然と、姿を現した。東電の最初の原発である福島第一原子力発電所の1号機の建設のため米本土からやってきたゼネラル・エレクトリック社の“ビレッジ”だった。米国人たちは、飛行場跡のコンクリの空き地をテニスコートにして、打ち興じた。

©iStock.com

 ビレッジには小さな公園や集会場もあった。伊沢たちはビレッジの米国人の子どもたちと友達になった。彼らが持っていたラジコンが珍しかった。彼らにメンコやビー玉を教え、彼らからラジコン遊びを教えてもらった。

 伊沢はその中の一人のラジコン少年となぜか気があった。言葉は英語も日本語も片言だったが、気持ちは通じる。「家においでよ」と言うので、一緒に行くと、金髪のきれいなお母さんがニコニコしながらチョコレートやジュースを振る舞ってくれた。

 クリスマスパーティーに招いてもらったこともある。父親が近くの山で切り出した立派なモミの木のクリスマスツリーがそびえ立っていた。母親がつくったクリスマスケーキがおいしかった。

 1968年6月、1号機の格納容器建設が終わった後、シンデレラが消えるように彼らは立ち去っていった。

 その後、伊沢は地元の工業高校を出て、東京電力に就職。福島第一原発の1/2号機の運転員として長年、経験を積んだ。そうして、2009年、福島原発第一1/2号機の当直長となった。