2011年3月11日に起こった東日本大震災は、日本の歴史に暗く影を落とす悲惨な原子力事故を招いた。格納容器内の圧力が高まり続け、刻一刻とメルトダウンが進む福島第一原子力発電所。極限状況下で、当時の現場所員は何を思い、どのように仕事に臨んでいたのか。
ここでは、船橋洋一氏を中心とした調査委員会による綿密な取材で明らかになった新事実を『フクシマ戦記 上 10年後の「カウントダウン・メルトダウン」』より引用。生々しい当時の様子を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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決死隊
8時すぎ、吉田(編集部注:東京電力福島第一原子力発電所所長)は菅直人と別れたあと、緊対室に戻った。
「9時を目標に、ベント(編集部注:放射性物質を含む気体の一部を外部に排出させて圧力を下げる緊急措置)を実施する」
吉田は、そう指示した。
ベントに必要な弁を開けるためには、放射線量上昇のため入れなくなっていた1号機の原子炉建屋内に入らなければならない。電源がないため遠隔操作の電動駆動弁(MO弁)と空気作動弁(AO弁)が動かない。マニュアル(手動)で格納容器のベント弁(MO弁)とS/C(サプレッション・チェンバー)のベント弁(AO弁)を開くしかない。
S/C(サプレッション・チェンバー)は、D/W(ドライウェル)とベント管で繋がっている格納容器下部のドーナッツ型の容器。1号機で1750トン、2~4号機で2980トンという大量の水を蓄えている。配管破断などの事故時やSR弁(主蒸気逃がし弁)が開いて高温の蒸気が入ってきたとき、蒸気はこの水で冷やされ液体の水に戻り、格納容器全体の圧力上昇が抑えられる。
ベントを行うために最も重要なバルブはS/C(サプレッション・チェンバー)上部に備えられている空気作動弁(AO弁)である。AO弁は「大弁」と呼ばれるメインのバルブと「小弁」と呼ばれる予備のバルブが、ベントラインに並行に備え付けられている。
AO弁は通常、ハンドルがついていないため、運転員が現場で開けることはできないが、唯一の例外があった。それは1号機のAO弁「小弁」だった。緊対室の復旧班員がそのことを図面で把握した。
吉田は、発電所対策本部発電班を通じて、当直に要請した。
「相当程度の被ばくの恐れがある。しかし、ここは現場に行ってマニュアルで開操作を実施してもらいたい」
要するに、「決死隊」として突っ込んでほしいという要請である。
当直は了承した。
「ベントの操作をやってくれ」
午前9時2分。東京電力は、発電所周辺の住民の避難を確認した。
その2分後、緊急対策室はベントの指示をした。それを受けて、当直長の伊沢郁夫が命令した。
「緊対(緊急時対策室)から指示が出た。ベントの操作をやってくれ」
すでに午前零時ごろには緊対室から「ベントをやれるようにメンバーを決めておいてくれ」との指令が来ていた。