所員の決死の作業によってベントに成功し、格納容器の破損を免れた福島第一原発1号機。しかし、それからおよそ1時間後には水素爆発が起こり、建屋の上部が吹き飛んでしまう事態に見舞われる。当然のことながら、現場にいた作業員の間では爆発の直後、大きな動揺が走ったという。ここにいてどうなるのか、ここにいたら全員が死ぬ……。極限状況下に追いやられる所員、そして、東電と官邸は、その瞬間、どのような対応に走ったのか。

 ここでは、船橋洋一氏を中心とした調査委員会による綿密な取材をまとめた書籍『フクシマ戦記 上 10年後の「カウントダウン・メルトダウン」』を引用。当時の様子を子細に紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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「頼む。頼むからここに残ってくれ」

 12日午後3時36分。福島第一原発の1号機の建屋の上部が轟音とともに吹き飛んだ。

 中央制御室(1/2号機)は、ドシャーンと上下に揺れた。天井のルーパーや蛍光灯が外れ、宙ぶらりんとなった。白いダストが部屋を覆った。その直後、蛍光灯に点っていたほのかな明かりも消え、真っ暗になった。

〈あっ、格納容器が爆発した〉

〈死ぬのか、ここで〉

 運転員たちの脳裏をそうした恐怖がよぎった。

 その時、伊沢は、当直長の椅子に座っていた。直撃爆弾を受けたような感じがした。

©iStock.com

〈中操(中央操作室=中央制御室のこと)そのものが壊れたのか〉

 そんな思いが脳裏を横切ったが、口は叫んでいた。

「マスク! マスクをかけろ」

 その声で全員、マスクをきっちりと着用しているかどうかを確認した。

 誰かがとっさに線量計をかざし指示値を確認した。

「あれっ。上がっていない」

「大丈夫かな」

「中操の天井はそんなに頑丈にできていないよな」

「早く非常扉を閉めて、外気が入らないように」

 免震重要棟とのホットラインは生きている。

若い運転員たちの間に広がる動揺

 真っ暗闇の1、2号機中操では、若い運転員たちの間に動揺が広がった。

 そのうちの一人に運転員の井戸川隆太がいた。27歳である。井戸川は入社後8年。双葉町の出身である。前年の7月、補機操作員から主機操作員に昇格したばかりだった。先に述べたように、伊沢と同じD班に所属、11日朝、発電所にかけつけた。

 地震が起きたとき、井戸川は双葉町の実家にいた。父も母も職場に行っていた。地鳴りが聞こえてきた。危険を感じ、部屋から出てカーナビでテレビを見た。津波警報が出ていた。

〈中操はてんやわんやしているだろうな。行けば何か役立つだろう〉

 中越沖地震のとき、柏崎刈羽原発の現場がいかに大変だったかという事後報告を読んだ。何はともあれ駆けつけよう。ただ、その前に両親の安否確認だけはしなければならない。両親の働いている会社に行って、互いの無事を確認した後、また実家に戻った。

〈ジョンに何かあったらいけない〉

 オスのビーグル犬である。首輪を外し、放した。

 それから福島第一原発の独身寮まで車を走らせた。自分の部屋に寄って外に出ようとすると、後輩たちがたむろしていた。

「オレはいまから会社行くけど、お前ら行くか」

「行きます」と声を上げた一人を乗せて、海沿いの道を通って発電所に向かった。到着すると 津波が来たことを知らされた。

「津波が来たんだ。海の下まで全部、水が引いた底が見えたよ」

 それを聞いて、ジョンのことが心配になった。

〈あいつ、どっちへ逃げたのか。無事だろうか〉

 井戸川はこの日の夕方から2号機の運転員として勤務した。ただ、同期の主機操作員がこの日は本番の運転員席に着いた。井戸川は主に圧力や水位を測る仕事に就いた。