年明け早々の1月4日、松本人志がTwitterにこんなツイートを投稿した。

《物知りな人は物知りな人の話を記憶している人。やっぱり0から生み出す人がカッコいいなぁ~。》

 これに対しては同意するリプライがたくさんついた一方で、「0から生み出しているように見える人も、実際には何かしらの知識や経験をもとにしている」といった意味の反論も目立った。

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松本人志 ©文藝春秋

絶えず新しい型を生み出していかねばならない宿命

 たしかに、どんなに独創的な作品でも、突き詰めていけば「0から生み出す」ということはありえない。音楽にせよ、映画にせよ、小説にせよ、多くの芸術ジャンルでは、むしろクリエイティブなつくり手ほど古今東西の作品を熟知していたりする。

 だが、ことお笑いに関しては事情がちょっと異なる。どんなにお笑いの歴史などについて深い知識を持っていようとも、必ずしも人を笑わせられるわけではないからだ。

 そもそも、落語のような伝統芸はともかく、漫才やコントの場合、確固とした型がなく、絶えず新しい型を生み出していかねばならない宿命にある。

「マヂカルラブリーの漫才は漫才なのか」問題

 おそらく松本人志ほどこのことを意識している芸人はいない。それは、昨年のM-1グランプリで優勝したマヂカルラブリーの漫才について「あれは漫才なのか」とネット上で議論が起こったのを受け、彼が「漫才の定義は基本的にない」「定義をあえて設けることでその定義を裏切ることが漫才」(フジテレビ『ワイドナショー』2020年12月27日放送分での発言)などと持論を展開したことからもあきらかだ。

マヂカルラブリー ©M-1グランプリ事務局

 松本の言う「0から生み出す」も、「新しい定義をつくること」とほぼ同義と捉えたほうがよさそうだ。そう解釈すれば、先のツイートもけっして的はずれではない。彼のなかでは、新しい定義をつくり続けられる者こそ、一番「カッコいい」存在なのだろう。

 もっとも、だからといって、お笑い芸人が物知りである必要はないのかというと、そういうわけでもないだろう。