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欧米から貪欲に学んできたかつての喜劇人たち

 お笑いの歴史をひもとけば、かつての喜劇人たちは欧米から貪欲に学んできた。たとえば、戦前に一世を風靡した喜劇俳優の榎本健一(エノケン)は、アメリカのスラプスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)の創始者である映画監督マック・セネックの喜劇から動きとセンスを採り入れたと語っていた(小林信彦『日本の喜劇人』新潮文庫)。

 エノケンや彼と人気を二分した古川ロッパなどによるドタバタ喜劇は「アチャラカ」とも呼ばれた。この言葉からして、「アチラ(欧米)風のモダン、ハイカラ」の意味での「アチラ」が転じ、バタ臭い喜歌劇を指すようになったものだとされる。

 戦後においても、フランキー堺やクレージーキャッツの面々は、映画やテレビで活躍する以前にはジャズミュージシャンとして米軍キャンプを演奏で回っていたこともあり、アメリカのエンターテインメントから大きな影響を受けた。音で笑いをとる彼らの芸は、スパイク・ジョーンズというコメディアンが元ネタだし、クレージーキャッツの一員である谷啓は、コメディアンのダニー・ケイからその芸名をつけている。

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フランキー堺 ©文藝春秋

 クレージーキャッツの後輩にあたるドリフターズの志村けんも、高校時代にアメリカの喜劇俳優ジェリー・ルイスの映画を観て、衝撃を受けたのを機にお笑いの道を志した。志村は後年にいたっても、仕事のネタにするため映画のビデオやDVDを買いこんでは、夜な夜な研究していたという(志村けん『志村流』三笠書房)。

ドリフターズの面々 ©文藝春秋

教養をクイズ番組や情報番組に活かしてきた第2世代以降

 クレージーやドリフは「お笑い第1世代」ともいわれるが、続く第2世代にあたるタモリやビートたけしなどになると、欧米からの影響は薄まる。

 ただ、たけしが読書家であることはよく知られるし、タモリもNHKの『ブラタモリ』で地学について専門家顔負けの知識を披露するなど、いずれも教養人としての側面を持つ。たけしには、フライデー事件で謹慎中、小中学生用のドリルなどで勉強をやり直した経験から、のちの人気番組『平成教育委員会』を企画したというエピソードもある。両者とも、趣味を通して培ってきた教養を、のちのち仕事に活かして成功を収めた好例といえる。

趣味であった教養を活かしたたけし ©文藝春秋

 最近の若手・中堅でも、オードリーの若林正恭などは自らの意志で家庭教師をつけ、ニュースや歴史について学んでいるという。ただ、かつての喜劇人たちにとって学ぶことはネタづくりに直結していたのに対し、第2世代以降の芸人・タレントたちは必ずしもそうではない。教養が活かされるのは、ネタをつくるときよりも、クイズ番組で回答したり情報番組でコメントしたりするときのほうが多いはずだ。