「街が韓国人に乗っ取られる」
大久保通りを飾ってきた商店街の店主たちも、やはり高齢化と後継者不足から、店を畳む人が出てくる。その土地にビルを建て、テナントを貸す立場に転身する。そこに韓国人の店が入っていく……。
そんな動きが急速に広がったのだ。日本人の住民や商店主の間では、いろいろな意見が飛び交った。
「観光客がたくさん来て、地価も上がるし賑わうし、いいじゃないか」という声。「街が韓国人に乗っ取られる」という不安。マスコミが元気なコリアンタウンと取り上げる陰で、地域の日本人は彼らとどう向き合えばいいのか、ずっと悩み続けていたのだ。2009年には、共住懇が「おおくぼ学校」と題して、街の変化を語り合うイベントを開いたが、そこではある日本人商店主が、
「年配のお客さんの顔つきが険しくなってきている。(中略)韓流を求めてやってきた人たちは楽しそうですが、街に住んでいる人の顔は明るくないのです」
と語っている。そんな葛藤を抱えながらも、やはり同じ街に住んでいるのだからと、日本人も韓国人も少しずつ近づき、顔を合わせ、話し合いを重ねてきた。
そして街の無秩序さにある程度の交通整理ができてきた2013年、竹島問題をきっかけにヘイトスピーチが巻き起こる。新大久保にも反韓デモが押し寄せ、観光客は減少。東日本大震災で韓国系の店が減っていたこともあり、韓流は一時的に勢いを失う。こうしたいざこざはもう勘弁と、街を出ていく日本人はまた増えた。
最小限に抑えられるようになったトラブル
こんなどたばたが20年も続いてきたのだ。その過程で、商店街では韓国人との融和を少しずつ進めて、日本の商習慣になじんでもらうよう取り組んだ。住宅地ではごみ出しや生活音のマナーをどうわかってもらうか、不動産屋や大家が説明をし、また先輩の韓国人がアドバイスをし、苦情やトラブルもだんだん減ってきた。
そうやって衝突を重ねながら、共存の基盤がつくられてきたのだ。この土台の上に、ベトナム人やネパール人やバングラデシュ人や、そのほかいろいろな国から来た外国人が乗っかり、いま新大久保は日本でも例を見ないインターナショナルタウンとなっている。この街でさまざまな異文化交流の輪が広がってきたのは、先人たちの苦労があるからだ。いまだって細かなトラブルはどうしてもあるけれど、それでも最小限に抑えられているようにも感じる。これも街の人々が20年かけて外国人とのつきあい方を身につけてきたからなのかもしれない。