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―――たしかに映画にはとてもユーモラスなシーンがたくさんありました。パリでは、プロデューサーから却下されるシーンがありますが、実際に体験したことなんでしょうか。 

スレイマン ええ、たしかに私の実体験です。色眼鏡でパレスチナを見る人は意外にも多い。私が書いた脚本を「これはパレスチナらしさが足りない」なんて言うフランス人も現れるわけです(笑)。最近ではさすがに少なくなりましたが、過去にはよく同じような経験をしました。私が作る映画に嫌悪感を示したり、こんなものは偽物だと断言する人にも何度か遭遇しました。左翼的な思想の強い人のなかには、第三世界を救済したいという思いが強すぎたのか、「君のアプローチは間違っている、パレスチナをこんなふうにユーモラスに描いてはだめだ」と私を説得してくる人もいたくらいです。人々の頭の中には、パレスチナについての固定観念が強くあるんです。占領され痛めつけられた悲劇の人々が、私の映画のように笑ったりふざけたりするわけがないと。でも実際は占領下にあってもみななんとか日常を生きようとしている。それに笑いというものは、それ自体が抗議行動だとも言えますよね。

ユーモアで現実をはね返す

――実際、映画を見ながらいろんな場面でくすりと笑ってしまいました。一方で、現在のパレスチナや世界の状況を考えると、笑っていていいのかと我にかえるような、居心地の悪い思いを抱いたのも事実です。監督から見て、この映画はコメディと呼ぶべきだと思いますか。それとも現実の社会への問題提起をはらんだ風刺映画と言った方がよいのでしょうか。

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スレイマン コメディでもないし何か問題提起をする映画でもない、と言うべきでしょう。というのもここに映っているものはすべて私自身なんです。現実に真摯に取り組み、私が見たもの、受け取ったものを盛り込んだ結果が映画になる。「ここは茶番風にしたい」という私の気持ちが映画の中の笑いにつながるわけです。そもそもユーモアと社会は切り離せないもの。現代社会は多くの問題を抱えている。でもだからこそユーモアで現実をはね返すこともできるんです。