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クラスターは44部屋中5部屋にとどまった

 後半戦早々の9日目には新たな感染者が発生した。今場所を全休している九重部屋から九重親方と幕下以下の力士計5人が陽性反応。同部屋ではその後も増え続け、計17人となった。こういう結果を見ると、来場所以降も場所直前の一斉PCR検査での絞り込み策は必須に思えてくる。それでも稽古、食事、風呂など24時間集団生活を日々送る角界で、いわゆるクラスターとなったのは44部屋のうち5部屋程度にとどまっているのは大健闘だ。コンビニに寄っただけでも小銭を消毒し、食材の買い出しから戻ったらシャワーを浴びると同時に服を洗濯するなど各部屋は涙ぐましい感染対策を根気良く続けてきた。場所後に時津風親方(元幕内時津海)の極めて残念な行動こそ発覚したが、おおむね協会員一人一人の努力で緊迫感漂う初場所はゴールへと向かった。

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 ついに迎えた千秋楽。優勝争いも最後まで持ち越され、見る側の興味はつながった。大栄翔が自力で栄冠への白星をつかみ、大関同士による結びの一番は朝乃山が正代に快勝した。初のかど番で臨んだ2人はそろって11勝と地位の責任を果たした。いろいろあった初場所は何とか完遂された。今場所は開催すべきか否かで意見は分かれただろうが、私は前者だ。コロナ禍を戦時中と置き換える人もいると思うが、ならば大相撲は第2次世界大戦期間中も本場所を年2~3場所のペースで実施。苦難の時代を乗り越え、歴史と伝統を紡いできた。

「なぜなら、そこに土俵があるからだ」

 終戦間際の1945年6月は焼夷弾によって屋根にいくつもの穴が開いた旧両国国技館で傷痍軍人や関係者だけを招き、非公開の7日間だった。いまだに信じられないのが、終戦3カ月後の45年11月にも10日間の本場所を挙行したことだ。日々の生活すらままならないはずなのに、大相撲は消えなかった。その理由は「なぜなら、そこに土俵があるからだ」。当時から軍配を裁き、後に行司の最高位である木村庄之助を約13年間も務めた熊谷宗吉氏の言葉は永遠に胸に残る。

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 緊急事態宣言の期間や感染状況の行方は不透明で、今年も角界は1場所1場所が試練の連続だろう。次の春場所は大阪での開催を断念し、5場所連続で両国国技館となった。だが土地や会場や運営方式が変わっても、4メートル55センチの土俵だけは変わらない。「時代がどう変わっても、大事なのは土俵の充実。この伝統を守らなければ」と生前に何度も言ったのが北の湖前理事長(元横綱)だ。時計の針が刻々と進むかのように、大相撲はこれからも続いていく。一日一日を耐えしのぎ、夜明けにも似た春をひたすら待っている。