2月11日、野村克也氏が亡くなって1年が経った。現役時の通算成績は2901安打、657本塁打、1988打点。45歳までグラウンドに立ち、華々しい成績を残し続けた男はいったいなぜユニフォームを脱ぐことになったのか。その理由は自身の心の弱さを痛感するある出来事にあったという。

 ここでは、野村克也氏の最晩年の考え方を掬い上げた一冊『弱い男』(星海社)を引用。現役引退を決意した際のエピソードについて、虚勢を張ることのない、ありのままの野村克也氏の言葉で紹介する(全2回の1回目/後編 を読む)。

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ライバルの失敗を願う心の弱さ

 その後、プロ野球選手としてどうにか結果を残すことができた。

 南海ホークスから、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)を経て、西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)まで、実働26年間も現役生活を送ることができた。

 実力の世界とは言え、プロ野球の世界も実は学歴社会だ。それにもかかわらずテスト生上がりの高卒の私が1970(昭和45)年には選手兼任監督にもなった。

 入団時には想像もしなかった華々しい結果を残したにもかかわらず、私は相変わらず弱い人間のままだった。

 私が引退を決意したのも、自分の弱さに直面したからだ。

 あれは80年9月28日の阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)戦のことだった。この頃の私は、すでに45歳を迎えていた。自分では「まだまだ衰えてはいない」という気概を持っていたけれど、試合出場は激減していた。

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 この日はダブルヘッダーだった。シーズン終盤ということもあったのか、第一試合で私は久しぶりのスタメン起用に燃えていた。しかし、バットは火を噴かずに凡打が続いていた。僅差で迎えた終盤、当時の根本陸夫監督は結果の出ていない私に代わって、ほとんど実績のない鈴木葉留彦を代打に送ったのだ。

 27年間のプロ生活で初めての屈辱だった。

 当時の私は、監督にとってはその程度の存在だったのだ。私は「犠牲フライくらいなら簡単だ」と思って、打席に向かおうとしていた。しかし、監督にとってはその程度の信頼さえも、すでになかったのだろう。

 この瞬間、私は否応なく、自己評価と世間の評価のギャップを痛感させられた。

 そして、決定的な事態が起こった。あろうことか、ベンチの中で私はチームメイトの失敗を祈っていたのである。

「ざまあみろ」という思い

 結果的に代打の鈴木は併殺打で、チャンスは潰えチームは敗れた。彼が凡打を打った瞬間、私は無意識のうちに「ざまあみろ」と思ってしまったのだった。

 長年、プロスポーツの世界にいて、こんなことは初めてだった。

 団体競技とは、選手全員が同じ方向を向いてプレーすることである。

 みんなが一つにまとまらなくては、絶対に優勝はできない。それなのに、私はチームの和を乱す存在になっていたのである。不満分子がいたら、チームは強くならない。そんなことは頭では理解していた。しかし、まさか自分がその不満分子というチームの和を乱す存在になるなんて想像もしていなかった。

 こうなれば、もうプロ失格だ。

 このとき、つくづく思ったよ。

 ――オレは弱い人間だ、って。