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 他人の失敗を願う心の弱さ、人としての弱さ。

 そんな現実を目の当たりにすれば、もうユニフォームを脱ぐしかないだろう。いや、そんな選手がユニフォームを着ていてはいけない。チームメイトに迷惑がかかるだけでなく、「野球」というスポーツを侮辱することにもなる。

 こうして、私は引退を決意する。

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 テスト生出身としてはよく頑張ったと、自分でも思う。

 入団時にはここまで長く野球ができるとは思わなかったし、2901安打、657本塁打、1988打点という結果を残せるなんて、まったく予想もしていなかった。

 けれども、現役生活の最晩年においてチームメイトの失敗を願ってしまう自分の心の弱さを突きつけられたことは、生涯にわたって苦い思い出となった。

「日本一監督」になってからも弱さは変わらなかった

 現役引退後、評論家活動を始めた。

 長年、キャッチャーとして培ってきた自分だけの視点を大切にして、視聴者にわかりやすい解説を自分なりに模索し続けた。

 ストライクゾーンを九分割にして、テレビ画面上で配球を解説する「野村スコープ」はおかげさまで好評を博した。

 人前でしゃべることは苦手だったけれど、少しずつ評論活動の面白さを感じつつ、それでも私の中には「もう一度、ユニフォームを着たい」という思いが消えなかった。

「1年目で種をまき、2年目で水をやり、3年目で花を咲かす」

 そんな思いが通じたのか、「ヤクルトの監督に」とオファーが舞い込んだ。パ・リーグ育ちの私にとって、セ・リーグのヤクルトはまったく無縁の存在だった。

©文藝春秋

「なぜ、私に?」と問うと、

「テレビの解説を聞いて、“この方ならチームを任せられる”と思ったからです」

 真面目に努力していれば、必ず誰かが見ていてくれるものなのだ。

 こうして、1990(平成2)年、私はヤクルトの監督となった。

「1年目で種をまき、2年目で水をやり、3年目で花を咲かす」

 監督就任時に、そう宣言した。

 結果的に3年目の92年にチームがリーグ優勝を果たすことができたときは本当に嬉しかった。日本シリーズでは、ライバルの森祇晶監督率いる西武ライオンズに敗れてしまったが、翌93年にはついに悲願の日本一を奪取した。

 あれは本当に幸せな瞬間だった。

 西武ライオンズ球場(現・メットライフドーム)で胴上げされた瞬間。私のユニフォームが乱れ、ピンク色のパンツが顔をのぞかせたことを覚えている人もいるかもしれない。テレビや新聞で何度か取り上げられたのだが、あれもまた私の「弱さ」の一端かもしれない。