沙知代亡き後、前向きな思いが失われてしまった
いささか駆け足となってしまったが、このように私は幼い頃から、現在に至るまで「弱さ」とともに歩む人生を過ごしてきた。
弱い人間だったから、ここまで順調な人生を歩むことができたのだろうか?
性格的には決して慎重派ではなく、むしろ私はアバウトな人間だ。けれども、常に私の中には弱さがあったために、曲がりなりにも80歳を過ぎるまでどうにかこうにかそれなりに幸せな人生を過ごすことができたのではないだろうか?
最初に述べたように、沙知代がいなくなってからの日々は、私にとっては無味乾燥な生活に一変した。
正直に言えば、この先の人生に対して、私自身は何も希望など持っていない。
そう遠くない将来、私も沙知代の下に逝くことだろう。
もう十分、生きた。
そんな思いもある。けれども、まだ少しの時間が私には与えられているようだ。
改めて、「弱さ」をキーワードに、これまでの半生を振り返ってみたい。
女手一つで私たち兄弟を育ててくれた「母の強さ」を、そして常に私を叱咤激励し、「あなたを幸せにできるのは私だけなのよ」と豪語していた「妻の強さ」を振り返ってみたい。
その一方で、父親らしいことは何ひとつできずに、息子・克則の成長に対して、ただただ右往左往していた私自身の「父としての弱さ」を、そして妻に先立たれて年老いた今、「老人の弱さ」を率直に語ってみたい。
少しずつ失われてしまった前向きな思い
沙知代が元気なうちは、老いの可能性を信じ、「老いて学べば、則ち死して朽ちず」の思いを抱いていた。これは江戸時代後期の儒学者、佐藤一斎の『三学戒』の一節だ。全文は次のようなものだ。
少くして学べば、則ち壮にして為すことあり。
壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
老いて学べば、則ち死して朽ちず。
老いたからこそできること、人生の集大成をどのように充実させることができるのか?
そんなことを考えていた時期もあった。
しかし、沙知代がいなくなった今、そんな前向きな思いも少しずつ失われてしまっている。そんな現在の心境を率直に綴っていきたい。
私の中に昔からある「弱さ」と、今度こそ正直に向き合ってみようと思うのだ――。