乗客106人、運転士1人、計107人が亡くなる大惨事となった福知山線脱線事故。15年の月日が経った今でも、カーブを曲がり切れなかった車両がマンションに頭から突っ込んでいる異様な光景を記憶している方も多いだろう。
『真実をつかむ 調べて聞いて書く技術』(角川新書)の著者、相澤冬樹氏は同事故の取材指揮を担当し、第一線で情報を追い続けていた。巨大組織の内部に潜り、真相を探り続けてきたからこそわかったJR西日本社内のきな臭い権力闘争とは一体どんなものだったのだろうか。同書を引用し、当時の生々しい取材のやり取りとあわせて紹介する。(全2回の2回目/前編 を読む)
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JR西日本社長と話をつける
福知山線脱線事故の取材は、大きく2つのテーマに分かれる。一つは事故を起こした当事者であるJR西日本の取材。もう一つは被害者とご遺族の取材。
事故現場が兵庫県尼崎市で、電車の始発駅が宝塚かだったこともあって、乗客は兵庫県の方が多い。だからご遺族取材は神戸放送局の記者が中心になり、大阪をはじめ関西一円からも応援取材に加わった。ご遺族取材を指揮するのは我が同期の北澤和彦だ。彼自身、交通事故の遺児で「交通遺児育英会」のお世話になった。その経験を知っている出石さんが「遺族取材の指揮は北澤以外にない」と喝破した。その辺りのセンスが出石さんは抜群だった。
遺族取材はどうしても土足で踏み込んでしまい、ご遺族の心情を害する部分がある。「来るな!」と罵倒されるならまだいい方で、中には殴る蹴るの暴行を受けた記者もいた。そんな時、北澤は「何を言われてもされても我慢するんだ」と言って、記者たちの悩みに耳を傾けていた。きちんと対応してくださるご遺族もいたが、その場合はご遺族のつらい思いを記者も同じように受け止めて、精神的にまいってしまうことがある。そういう部分も北澤が話を聞いて向きあっていた。
私は主にJRサイドの取材指揮を任された。事故原因の究明も再発防止策も、JR側への取材が不可欠だ。だがJR西日本は、それまでほとんど取材上のお付き合いのない会社だった。社長をはじめ幹部の中に、腹を割って話せる親しい関係の人は、どの記者もつかんでいない。そして人間関係は一朝一夕に築けるものではない。いろいろな記者が取材に回っても、ほとんど有効な情報を取ってくることができなかった。これはなかなか難儀だ。ご遺族の取材が少しずつ進展を見せる一方で、JRの取材はなかなか進まなかった。
開いた風穴
そんな状況がしばらく続いた後、JR取材の担当記者が代わった。新たに担当になったN記者とは、大阪府警担当時代に一緒に仕事をしたことがある。この人と定めた相手に食い込み、信頼を得て情報を聞き出してくる能力がずば抜けていて、数々の特ダネを飛ばした。それに、いい呑み屋をよく知っていて、私を案内してくれた。私の持論「いい記者はいい店を知っている」を地で行く記者だった。
そんなN記者に、JR西日本の取材に風穴を開けてほしいとミッションを出した。するとほどなく、彼が底力を発揮する場面がやってきた。
「相澤さん、JRの経営陣、取材がいけそうです。NHKのこと、誤解していたみたいです」
N記者はあっさりと言うが、そう簡単にできることではない。話はさらに続く。
「経営効率優先で安全軽視のJR西日本と、一言で報道されていますけど、経営層の中でも様々な立場があるんです。事故の前から警鐘をならして、道半ばで更迭された人もいます。この事故を機に、JRを改革しようとしている幹部たちもいることがわかりました。単純に経営と組合の対立でもなく、内部はかなり複雑です」
その言葉から、会社にかなり深く食い込んでいることが感じられた。しばらくして彼はこんな話を持ち込んできた。