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《早大時代にラグビー部に在籍したことがあり、「文教族」として知られた。日本体育協会(現・日本スポーツ協会)や日本ラグビー協会の会長を務め、東京大会の招致にも尽力してスポーツ界への影響力を高めた。》(朝日2月6日)

 つまり「早大ラグビー部所属」が大きな売りになっていることがわかる。

早大ラグビー部の清宮克幸監督(当時)と @文藝春秋

早大ラグビー部は…4カ月で退部!

 しかし。

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 森喜朗は早大ラグビー部をわずか4カ月で退部しているのだ。

 もちろん部活やサークルを途中で辞めるのは問題ない。ところが森喜朗の場合は早大ラグビー部に入った経緯が特殊なのだ。

「私の履歴書 森喜朗回顧録」(日本経済新聞出版社)に次のくだりがある。

《父も学校に呼ばれ「あなたの息子さんは早稲田は無理ですよ」と言われて帰ってきた。父は反発した。「こうなったら仕方がない。意地でも喜朗を早稲田に入れてやる」と言い、早稲田大学ラグビー部監督・大西先生への紹介状を書いてくれた。》

 父・森茂喜は町長であり早稲田のラグビー部出身である。一般学生とは違う「縁」を利用したのだ。こうしてまんまと早稲田に入ったが高いレベルについていけず体も壊してわずか4カ月でラグビー部を退部。

 それなのに「遺書 東京五輪への覚悟」(幻冬舎)という本の第2章のタイトルは、

「遺書 東京五輪への覚悟」(幻冬舎)

『すべてラグビーから学んだ』

 本の冒頭では五輪組織委の会長職に関して、

「途中で投げ出したらそれこそラグビーの敢闘精神に反する」

 と言っている。

 だからラグビーすぐ辞めてるじゃん!

 これでは森喜朗ではなく「盛り喜朗」である。失礼を承知で言えばなりすましのテクニックに近い。座持ちの良さと密閉された空間での働きぶりでスイスイとトップに駆け上がる「盛り喜朗」。