そんなことを考えている内に、ようやく出発の時間が近づいてきた。何は、この日も、力一杯私をハグしてセキュリティチェックとパスポートチェックに向かった。ゲートに消える時、何は薄らと涙を浮かべながらも無理した笑顔を作り、何度も何度も手を振り、私は再び「やれやれ」と思ったものだ。
それにしても、異国の人間を呼んで日本の法廷に立たせるということは、想像を絶するエネルギーを必要とするものだ、と、私はつくづく実感した。この何の帰国に関する顚末は、詩織にも、弁護士にも一切話さず「ちょっとしたトラブルがあったけれど無事帰国しましたよ」と報告しただけだった。
日中見合い結婚事情
詩織の東京高裁における控訴審判決の日は暮も押し迫った07年12月26日に決定した。
私は、その間を利用して山形県長井市を訪れていた。長井市に、日中の国際結婚をとり持って14年という大ベテランの仲介人がいると聞いたからだ。
当時、私が抱いていた疑問は、詩織の犯罪は、詩織という個人の性格に帰着するものなのか、国際お見合い結婚というシステムそのものが包含する民族的意識のズレに由来するものか、というものだった。前者であれば、永住権、あるいは国籍が取得出来た時点で、詩織はさっさと茂の下から逃げ出していた筈だ。彼女には、日本社会における旺盛な生活力があったのだから。一方、後者であれば、意識のズレを修復する具体的な処方箋がある筈で、それをベテラン仲介人から聞きたいと思った。
長井市は、東京から山形新幹線で福島、米沢を経由して赤湯まで行き、更に赤湯から第三セクター線に乗り換えて約3時間。朝日岳連峰の山々に囲まれた人口約3万人程度の小さな市だ。かつては最上川の商港都市として栄えたが、いまでは、街の周辺一面に田園が広がる“米どころ”だ。従って買い物するのにも車がなければ何も出来ない。そうした意味では詩織が住んでいた千葉県の横芝光町よりも、もっと辺鄙といえるかもしれない。
この辺鄙な町や村々に、40人近い中国人花嫁を連れてきた、というのが佐藤幸男だ。07年当時73歳だった佐藤は、私が取材した翌年、体調を崩して亡くなっているので、まさに、貴重な話を聞くことができたという訳だ。