内海好江師匠から「漫才をやる気があるなら面倒を見る」
出川によれば、人見知りで、たまに飲み会に参加しても端の席で『週刊少年ジャンプ』を読んでいるようなタイプだったという内村に対し(※3)、南原は同級生のなかでも目立つ存在であった。そんな2人がコンビを組むのだから面白い。
香川出身の南原はもともとお笑いが好きで、高校時代には落語研究会に入っていた。しかし芸人を目指して大阪に行った先輩たちがみんな挫折して帰って来るので、芸人の世界は自分になんか行けるところではないと思い知る。そこでほかに人前に出る仕事はないかと思い、気軽な気持ちで専門学校に入ったという(※4)。
内村とのコンビ結成のきっかけは、2年生のときの漫才の授業だった。それまでさほど仲が良かったわけではないが、あぶれた者同士、その場かぎりのつもりでコンビを組んだ。コンビの名前は「おあずけブラザーズ」。内村が台本を書き、いざ発表会で披露したところ、南原がアドリブを連発し、おおいにウケた。特別講師だった漫才師の内海好江からは、「卒業しても漫才をやる気があるんだったら、私たちの事務所(マセキ芸能社)で面倒を見る」と言われる。
『お笑いスター誕生!!』のオーデションに合格
卒業前の進路指導でも、演出家の先生(河本瑞貴)から「おまえらは芝居の世界に行ったら絶対に失敗する。漫才で行け」と言われた。その先生と内海好江からは、若手芸人の登竜門的番組であった『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ)のオーディションも勧められる。そこで受けてみたところ、1ヵ月後に出演が決まった。1985年のことだ。このときウッチャンナンチャンと初めて名乗った。
初挑戦の『お笑いスタ誕』では準優勝し、それをきっかけに当時人気のあった『オールナイトフジ』や『夕やけニャンニャン』(いずれもフジテレビ)といった番組でレギュラーを得る。だが、順風満帆とはいかない。ネタはできたが、番組で臨機応変に振る舞うことができなかったのだ。
そのうちにレギュラー番組がなくなっていき、『お笑いスタ誕』だけが残った。2度目の挑戦では4位だったので、とにかく優勝しようと決めた。できなかったら、自分たちはこの世界に向いていないということだから、そこに賭けてみようと本気を出し、番組終了間際の1986年、ついに優勝をつかむ。
これと並行して、前出の劇団SHA・LA・LAを出川たちとともに結成し、公演のたびに内村が脚本・演出を担当した。1987年に深夜番組『冗談画報』(フジテレビ)にウッチャンナンチャンが出演すると、劇団も脚光を浴びる。出川も彼らの番組に呼ばれるようになり、しだいに顔が知られていった。