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主人の妻との密通したケース

 江戸時代の社会および人間関係の根幹にあったのは主従制である。武士は主君に、奉公人は主人や親方に絶対的に服従しなければならない。この関係はさらに親と子、夫と妻に拡大される。この在り方をくつがえす犯罪に対しては、最も厳しい刑罰が行なわれた。

 典型例は第1章に示した殺人罪における処罰例であるが、この儒教的といってよい刑罰の適用は密通罪でも行なわれた。「主人の妻」との密通が最も重い刑罰になる。『御定書百箇条』の密通条項で主従関係がからむのは、次のとおりである。

追加
寛保三年極
一、主人の妻と密通いたし候もの 男は引廻しの上、獄門 女は死罪

従前々の例
一、主人の妻へ密通の手引きいたし候もの 死罪

寛保元年極
一、主人の娘と密通いたし候もの 中追放 但し、娘は手鎖かけ、親元へ相渡す


一、主人の娘へ密通の手引きいたし候もの 所払い

 徳川吉宗は『御定書百箇条』の制定にあたって、それまで苛酷だった刑罰を軽くする寛刑主義をとったのだが、主人筋への犯罪行為に対しては逆に従来の処罰よりも重くした。その典型例が主人の妻との密通であった。それまで主人の妻との密通も、他の女との密通と同じ「死罪」であったのを、『御定書』では「引廻しの上、獄門」と重くした。

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 たとえば4代将軍家綱時代の1664年(寛文4)、髪結見習いの伊兵衛が主人で師匠でもある長兵衛の妻と密通に及んだとき、2人とも死罪であった。また5代将軍綱吉時代の1688年(貞享5)4月、江戸木挽町に住む三左衛門の召使五兵衛は三左衛門の女房と密通したが、やはり死罪であって、「引廻しの上、獄門」というような極刑にはなっていない。獄門は死罪より1ランク重くて、斬首された首は刑場に3日間晒される。

 主人の妻ではなく主人の娘の場合も、それまでの「所払い」から「中追放」へと重くされた。密通の相手が主人の妻(母親)と娘とでは、刑罰は6段階もの差がある。主人の妻との密通が死罪から獄門へと加重されたきっかけは、1726年(享保11)に起きた白子屋おくま事件にある。この事件はいくつもの歌舞伎に作られて、今日でも人気があるが、事実は芝居とは大きく違っている。

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丹野顯

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