重大犯罪という意識が希薄だった
しかも犯罪が立証され、有罪判決が出たとしても、「幼女姦」を除いて多くの場合は『御定書百箇条』に定められた処罰よりも軽罪であることが多かった。これは江戸時代の社会をおおっていた男尊女卑の考えが反映されたといってよい。加えて江戸時代の男は町人も、役人である武士も、レイプに対して重大犯罪という意識が希薄であった。
江戸時代にはレイプ犯の多くは追放刑で終わった。犯人は被害者の目の前からはいなくなるが、隣国など別の土地で生きていたので、心が安まることはない。これは犯人が死刑であっても同じだろうが、被害者は精神的に救われることはない。結局、被害にあった妻や娘は悪夢を見たと思って忘れること、そして夫や親も泣き寝入りして、世間に記憶されないように暮らすことが一般的な有りようだった。
江戸時代のレイプ犯罪はこうした背景があり、事件の発生件数は多かったはずだが、裁判記録はごく少ない。『御仕置裁許帳』や『御仕置例類集』などには、被害者やその親たちが泣き寝入りできなかったケースだけが記録されている。
江戸時代にはレイプは「密通」の延長上で理解されている。密通は婚姻以外のすべての性関係をいう。『御定書百箇条』の「密通御仕置之事」にはさまざまな密通罪があるが、レイプにかかわる条文は少なく、ピックアップすると、次のとおりである。
追加
寛保三年極
一、夫これ有る女得心(とくしん)これなきに、押して不義いたし候もの 死罪
但し、大勢にて不義いたし候はば、頭取(主犯)獄門、同類(従犯)重き追放
追加
同
一、女得心これなきに、押して不義いたし候もの 重追放
追加
同
一、幼女へ不義いたし、怪我いたさせ候もの 遠島
被害者によって差があった処罰
レイプは「押して不義」すること、つまり「女の合意がないのに無理やり性行為を行なうこと」である。同じ犯行でも、被害者が夫のある女か独身かで刑罰に大きな差があったのは、江戸時代の罪刑の特徴である。
レイプした相手が人妻ならば死罪、主人の妻ならばさらに重くて獄門、しかし娘ならば重追放と、相手の社会的な位置(ポジション)によって処罰に大差があった。
幕府法の『御定書百箇条』ではなく、各藩の法となるともっとさまざまで、たとえば会津藩では主人の13歳になる娘を強姦した下男が、男根を切られたうえ鼻をそぎ落とされ、身分を物乞いに落とされている。見懲(みこ)らしのために死刑にしないで生かしておくという厳罰であった。(略)