昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2021/04/17

genre : ライフ, 歴史, 読書

夫がレイプ犯を捕縛したケースも

『御定書百箇条』ができる前々年の1740年(元文5)に、次のような事件があった。

 武蔵(埼玉県)八甫村の孫四郎の妻けんが5月5日、初節句なので生まれてまもないわが子を狭間村に住む父母へ見せに行った。翌日、けんは赤ん坊を抱いて麦畑の中を家路につくところを、2人の男にしつこくつきまとわれた。そのうち麦畑に押し倒されて、2人に犯された。けんは産後まもなかったので、出血多量で気を失ってしまったが、妻を探しにきた孫四郎に見つけられて助かった。

 孫四郎がだれの仕業かただすと、けんは名は知らないが、顔には見覚えがあるという。孫四郎は道行く人を見張らせていたところ、主犯格だった男が馬を引いてきた。孫四郎が捕らえてただすと、東大輪村の十右衛門だという。もう1人の男は同じ村の角助だった。

(写真はイメージ)©iStock.com

 東大輪村は旗本松平三七郎の知行地であり、独自の警察力は脆弱なため、犯人の捜索や捕縛などはできない。被害者の夫が犯人を見つけて捕らえ、突き出したというのは執念のほどがわかる。しかし2人の男に下された判決は「重追放」であった。妻の仇を討とうと独力で犯人を捕らえた孫四郎にしてみれば、当然死刑になると思っていたから、再度、怒りを感じただろう。

 一般に『御定書』以前の処罰は同じ犯行でもずっと重い刑が科されていた。将軍吉宗は『御定書百箇条』において寛刑主義をとり、多くの処罰が軽減化された。このレイプ事件は『御定書』の追加条項より3年前のことだから、『御定書』にさえ「夫のある女を大勢で不義に及べば、首謀者は獄門、従犯は重追放」とある輪姦事件では、十右衛門は獄門以下の刑は考えられない。ところが、

「この者ども儀、事を催し候儀にはこれ無く候得共(そうらえども)、酒に酔候儀とは申しながら、小児を抱き、人の妻と相見候もの、理不尽に段々会合いたし、不届きにつき、右の通り(重追放)申し付ける」(『徳川禁令考』後集)

(写真はイメージ)©iStock.com

 つまり計画的な犯行ではなく、酒に酔っていて発作的な犯行だからと、『御定書』よりずっと軽い、男の欲情を大目に見た処罰になっている。レイプ犯罪に対しては、『御定書』以前から重大で深刻な犯罪とは考えられていなかったのである。

『御定書』では吉宗の意向によってレイプは重刑化されたが、裁判や警察にあたる幕府役人から庶民に至るまで、男たちのレイプ犯罪への無理解が変わることがなかったのは、この後の同種事件の処置を見てもわかる。

江戸の色ごと仕置帳 (集英社新書)

丹野顯

集英社

2003年1月22日 発売

この記事の写真(4枚)

ツイッターをフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー