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《黙っていたから死刑なのか》オウム裁判「ひとりも殺さなかった男」にみる黙秘と判決

『私が見た21の死刑判決』より#32

2021/03/20

source : 文春新書

genre : ニュース, 社会, 読書

note

2人の命の責任を被った、ひとりも殺していない人間

 殺意があったのでもよい。しかし、結果的に殺せなかった。殺意があっても、殺すまでに至らなければ、それは殺人未遂だ。未遂で死刑にはならない。

 共同の責任を負うなら、殺人で起訴された送迎役の運転手にだって死刑が適用されてもおかしくない。

 あるいは、同じ苗字でも林泰男のほうが最初に捕まり、自白をして「自首」が認められたのなら、やっぱり死刑は回避されただろうか。彼は、自分の担当路線で8人を殺している。

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 その反対に、林郁夫がいくら「自首」をしたところで、もしも8人を殺していたとしたのなら、「無期懲役」の判決を得ることができただろうか。

 いや、タラレバの仮定でなく、結果から判断するというのであれば、冒頭にも触れた岡崎一明に認められた「自首」はどうだろう。結果よりも、そこに行き着くまでの打算的な動機が非難された。反省・悔悟の情が顕著だった林郁夫が同じ裁判長の判断で死刑を回避された。

 それでも、反省・悔悟の情が顕著であり、人格まで評価されながら、林泰男、豊田亨、廣瀬健一は死刑になった。

 だとしたら、口下手であっても横山が彼らと同じように反省の弁を口にしていれば、その担当路線の結果からも、死刑を回避できる可能性はあったのか。もとより、打算的なところは何もない。

 ──黙っていたから死刑なのか。

 ここで横山を擁護したり、弁護したりするつもりは毛頭ない。

 ただ、ぼくがみてきた死刑には、自分の仕出かしたことでひとりも殺していなくても、死刑になった人間がいたという結果である。

 それは共犯者の殺した12人の責任を共同に負ったものだ。

 その共犯者のひとりは、理屈でいえば12人を殺しても死刑にならなかったことになる。彼は直接2人を殺したにも拘わらず。

 その2人の命の責任は、ひとりも殺していなかった人間が死刑で被ることになった。

 そこに、合理的な説明が果たしてあっただろうか。