1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与した信者が次々と逮捕された。
裁判での信者たちの振る舞いは様々だった。傍聴したジャーナリスト・青沼陽一郎氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。前編を読む)
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利用された純真さ
林郁夫はとにかくよくしゃべった。事実関係、反省の弁もさることながら、教団や教祖に対する持論の展開から、黙秘を貫く共犯者への説教まで、とにかく切々と捲し立てた。それが、自分にできる正しいことなのだという自負もどこかにあった。
それが、自首をした彼の純真な気持ちであるというのならば、それは教団での違法活動を救済であると信じて地下鉄にサリンを撒いた純真さと、いったいどこが違うのだろうか。清く正しくありたいという気持ちが、教団への入信を誘ったのなら、同じ気持ちで証言に臨む林郁夫とは、どこに違いがあるのだろうか。純真であろうという本質的なところでは、何も変わらないようにさえ思う。
それでも、結果がすべてである。同時多発的なテロ計画において、ひとりでも欠けたら事件の完遂はなし得なかったのだから、死者12人全員に共謀共同正犯としての責任を負うものだとするならば、横山は実行行為者として純真に作戦を敢行したことになる。他の共犯者と共同歩調をとって、自分がミスをすることなく誠実に決行に至った。それでも、結果としてサリン袋のひとつに穴を開け損なっている。
むしろ、そうした純真さを教団は利用していたのではなかったか。
林郁夫も、その同じ純真さを利用されたのではなかったのか。
裁判になっても、自分の殻の中に閉じこもっていく横山には、いまもそうした部分は残っているのではないか。それは、自分の価値観に従うことであり、外界に向かって積極的に話しかけるのか、あるいは内に向かって引きこもることなのか。外に向かうにしても、自分の罪を直接感じさせるだけの対象が必要であったのではなかったか。