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神奈川県民がよく降りる相鉄線“ナゾの途中駅”「二俣川」には何がある?

「神奈川県内ではバツグンの知名度」

2021/02/24

「試験場通り」とがんセンターをぬけると…

 二俣川の運転免許センターは、万騎が原方面とは反対の北口にある。改札前の自由通路に戻って北側に出ると、足元に神奈川県道40号線が通る陸橋をそのままわたり、ドン・キホーテの入っている雑居ビル。ビルの間を北側に抜けていくと、「試験場通り」という名の通りに出る。その試験場とは、もちろん運転免許センターのことだ。

 

 道沿いには免許の筆記試験対策の予備校がちらほら。大きく左にカーブしてゆく道をそのまま進むと、正面には神奈川県立がんセンターが見えてくる。がんセンターの横を少し歩けば待ちに待った免許センターだ。歩いていくならばもうひとつ、商店街と住宅地の間を抜けていく近道もある。……と、わざわざ筆者がこの道筋を辿らずとも、神奈川県民の方々は、みんなここを歩いたのでしょう。

 
 

坪単価4700円程度の雑木林だった

 この免許センター、いったいいつ頃できたのだろうか。答えは昭和30年代末期だ。それ以前のこの一帯は、特に目立ったものは何もない丘陵地の雑木林だったという。ところが、1958年から翌年にかけて、神奈川県がこの付近一帯をまとめて買収したのだ。戦後の復興と経済成長に伴って、飛躍的に人口が増加。それに対応して公共施設を集約すべく、横浜の中心部から少し離れた丘陵上の二俣川の雑木林に白羽の矢を立てたのだ。

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 いかにその当時の二俣川が何もなかったのか。それは、県の用地買収価格が坪単価4700円程度だったということからもよくわかる。それが1972年になると坪15万円までに高騰したのだ。所得倍増計画の真っ只中、つまり物価が右肩上がりの時代だったとはいっても、さすがにこれだけの地価高騰はスゴい。二俣川は、この時期に発展の足がかりを掴んだのだ。そうして、二俣川に免許センターが誕生した。以降、二俣川駅の周辺は一気に宅地化が進み、横浜郊外のベッドタウンに変貌したのである。