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「息子に与えられるものは“震災”と“原発”」震災後に東京キー局記者が福島に移住して得たもの

「息子に与えられるものは“震災”と“原発”」震災後に東京キー局記者が福島に移住して得たもの

TBSを辞めた記者#2

2021/03/10

genre : ニュース, 社会

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 2011年3月11日、東日本大震災が発生した。17都道県で12万9,914棟の住宅が全壊し、25万8,591棟が半壊(内閣府「平成24年版防災白書」より)。人的被害は12都道県で死者1万5,859人、行方不明者3,021人(平成24年5月30日警察庁発表より)にのぼった。

 未曽有の被害を引き起こした大災害から今年で10年。当時、TBS記者として被災地の取材をした木田修作さんは、震災発生の4年後にTBSを辞め、福島県に移住することを決めた。

 木田さんはなぜ東京キー局を辞め、いま福島で何をしているのか——。震災発生直後から現在に至るまでについてを振り返った。

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(全2回の2回目)

◆◆◆

 その日の朝、私は朝食を作っていた。ゆで卵ができあがる直前だった。その日は、仕事を早めに切り上げて、翌日から妻と行く温泉旅行の準備をする予定だった。

「もう一度、記者をやる気はないですか」

 テレビユー福島にいる先輩記者からの連絡であった。文面に微かな反発を感じた。私は、ずっと記者のつもりで、やっていた。メディアにいる人間だけが、記者ではない。折しも、40年前にあったいわきの芸術運動に関わった人たちについてまとめたノンフィクションで、賞をとった頃でもあった。この気持ちは、いまも変わらない。食える、食えないが記者ではない。書くかどうか。それが記者だ。

津波の被害にあった住宅地 ©iStock

 部屋を見回した。忙しく朝の支度を整えている妻は身重であった。冬には息子が生まれる。気がかりなことはいくつもあった。TBSを辞めて以来、テレビのない生活をしていた。そんな人間に、放送記者が務まるのだろうか。加えて、いわきに生活の基盤ができつつあった。一生、付き合い続けるだろう友人たちもたくさんいる。TUFに入るとなれば、家は福島市になる。作った礎を一度、壊して作り直さねばならない。

震災直後の自分の言葉

 2人の先達に相談をした。1人は、TUFに行くことを勧め、もう1人はどちらとも言わなかった。悩みはより、深くなった。

 なぜ悩んでいるのだろう。断ればいいだけのことである。どこかで自分の中に、テレビの世界から逃げてきたという気持ちがあった。「1年やそこらで撤退したら笑いものになる」と先輩にぶち上げた、震災直後の自分の言葉も思い出した。

2021年に撮影した家族写真 ©白圡亮次

 その一方で、メディアを辞めたことで得られた出会いもあったし、これまでいわきで仲間たちとともに続けてきた活動もたくさんあった。できることが、まだあるかもしれない。だけど、失うものも、あるかもしれない。どの道生活は大きく変わる。妻は反対した。断る理由は、いくらでもあった。

 しかし、私は結局、放送記者となる道を選んだ。