2011年3月11日、東日本大震災が発生した。17都道県で12万9,914棟の住宅が全壊し、25万8,591棟が半壊(内閣府「平成24年版防災白書」より)。人的被害は12都道県で死者1万5,859人、行方不明者3,021人(平成24年5月30日警察庁発表より)にのぼった。
未曽有の被害を引き起こした大災害から今年で10年。当時、TBS記者として被災地の取材をした木田修作さんは、震災発生の4年後にTBSを辞め、福島県に移住することを決めた。
木田さんはなぜ東京キー局を辞め、いま福島で何をしているのか——。震災発生直後から現在に至るまでについてを振り返った。
(全2回の1回目)
◆◆◆
今年の初め、被災地の取材で少し戸惑うことがあり、寄るべき言葉を探そうと本棚から久々に『苦海浄土』を引っ張り出し、開いてみて驚いた。
挟まっていたのは、JRの特急券であった。東京発泉行きの特急ひたち15号。日付は平成27年6月23日。あの日も私は、この本から言葉を探していたらしい。
この日、新卒で入ったTBSテレビを辞め、一切合切を引き払って(といってもそんなに多くなかったが)、後に妻となる彼女とともにいわき市泉町のアパートに転がり込んだ。確かいわきには妻が先に到着していたはずで、私は高円寺のアパートの最終確認をして、一人でこのひたちに乗っていたのである。
「これだけの災害で、1年やそこらで撤退したら、笑いものですよ」
「なるべく克明に、私はこの日のことを思い出さねばならない」
当時の私は、石牟礼道子のこの言葉に印をつけている。これから見るもの、聞く言葉のすべてを、記録しよう。そういう気持ちでいたのだった。6年の時を経て、忘れかけていた落ち着かない時間や、抱えていた不安を、思い出した。前向きな気持ちとは言えないし、夢や希望の出発でもなかった。
ひたちはどんどん東京から離れ、建物はまばらになり、東北へ向かっているのだと思った。
車内で、震災直後の自分の言葉を振り返り、少し苦しくなった記憶がある。
「これだけの災害で、1年やそこらで撤退したら、笑いものですよ」
2011年4月、まだ非常時の真っ只中にあった福島市の居酒屋。私は先輩記者たちに、ハイボールのジョッキを手にそう言ってのけた。
系列の応援記者としての任務を終えた日の、ささやかな打ち上げの場であった。応援といっても、新人で所属は政治部で、現場の経験もほとんどなかった。受け入れた方も、送り込んだ方も、勇気ある決断だったのではないかと、いまにして思う。役に立つはずがない。そんなことも知らずに、何もできなかったはずの新人記者は、ぶち上げたのだった。
それから4年の間、福島を訪れていない。私は、まさしく笑い者であった。
これから何ができるかという焦燥感と、自分の言葉にようやくカタをつけられるという気持ち。気持ちが整わないうちに、ひたちは泉駅に到着した。