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《震災から10年》「これだけの災害で、1年やそこらで撤退したら、笑いものですよ」社会部記者がTBSを辞めた理由

TBSを辞めた記者#1

2021/03/10

genre : ニュース, 社会

note

胸に手を当てて思い返す「大切な言葉」

 メディアに対する不信は、ずいぶん聞いた。

「3月は静かにしたいの」

 と、被災地で知り合った女性は静かに言った。ただでさえ、あの日を思い出す。多くの人の命日でもある。この日は静謐であるべきだ。というのが彼女の主張だった。私はうなずくよりほかなかった。

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「協力しても何のメリットもない。放送が終わればもう二度と来ないでしょ。あなたたちはそれでいいかもしれないけど、私たちはそうはいかないもの。メディアは“ただの人”を祭り上げて人生をめちゃくちゃにしているんじゃないかしら。それでいて、大した取材もしないから、取り上げるべき人を取り上げていないのよ」

福島県富岡町 ©iStock

 それをなぜ私にぶつけているかといえば、私がTBSにいたからである。期せずして私はこのあと、テレビの世界に戻ることになるが、いまも自分の足元を確認するときに胸に手を当てて思い返す、大切な言葉だ。元来ふらふらしている人間である。足元は何度も確認しなくてはならない。自分がしていることが、どんなことか。何のためにそれをやっているのか。迷うときはいつも、この言葉を思い出す。

3月11日は基本に立ち返る日

「とまり木」もまたそういう存在である。誰かのとまり木であると同時に、私たちが戻ってくる場所でもあった。福島、あるいは東北で、伝えることの原点である。いまは活動止まっているが、終わったわけではない。また、言葉を紡ぎたいと思う。

いわき時代に撮影した妻 (筆者撮影)

「まっとうに生きているかな、自分のやっていることは恥ずかしくないかな、と再確認する日」
 
 3月11日について、妻は「とまり木」のWebサイトにそんなふうに書いている。

 生きられなかった多くの人たちがいる。自分が生きていることの意味を問い直し、基本に立ち返る日。私たちが日々を過ごし、巡っていく日常の上に、3月11日がある。

原発事故で避難を余儀なくされた南相馬市小高区の小高川。桜の名所で植樹活動も行われている (筆者撮影)

 東日本大震災がなかったら、どんな人生を送っていただろう。いまも赤坂にいただろうか。明るい東京の夜の中で、生まれ育った東北を、顧みることがあっただろうか。

 職業にしようがしまいが、どこかで取材をして原稿を書いていると思う。それが、何の原稿なのか、どこにいるのか、いまとなっては想像がつかない。私は震災と原発事故があった世界を生きるしかないのだ。

 東北の片隅で、生活し、原稿を書く。それは私にとって、とても大切なことである。

《震災から10年》「これだけの災害で、1年やそこらで撤退したら、笑いものですよ」社会部記者がTBSを辞めた理由

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