誰もが震災と原発事故を抱えながら
写真館にはいろんな人が来た。顧客名簿はいわき市民だけではない。双葉郡から避難してきた人も多かった。成人式、七五三、お宮参り。人の数だけ、記念日までのストーリーがあり、誰もが震災と原発事故をどこかに抱えていた。
全国に散らばってしまった同級生と過ごす成人式を、心待ちにする20歳の女性。震災を経て結婚し、生まれた子どもは震災とともに歳をとった。誰もが、何かしらの形で「あの日」を背負いながら、訪れる記念日を祝った。
いわきの人たちからは、原発事故の避難者が多額の賠償金を手にしていることへの罵倒に近い言葉も聞いた。反対に避難者からは、その虚しさも聞いたし、どうせ誰にもわかるまいという、諦めのような気持ちを聞いた。インタビューでは出てこない生活する人たちの言葉が、私の中をたくさん通って行った。私のような流れ者が、反論も同情もできるはずがなく、どちらに対してもあいまいにうなずいた。そういう人どうしが互いに見せ合う、やさしさや笑顔が、なおのこと起きていることの根深さを感じさせた。
霞が関で記事を読んでもわからなかった現実が、ぼんやりと見え始めていた。
私は、移住者から生活者になりつつあった。秋に彼女は妻になり、私は夫になった。
結婚した後、妻とともに「とまり木」という活動を始めた。小冊子とWebページの編集が主な活動で、極めて私的に起きたことを発信する実験でもあった。
取材と称して、いろんなところへ行き、人に会った。職業としての記者を離れてみても、私は人の話を聞くのが好きだったし、それを誰かに伝えることを必要としていた。ニュースは世界そのものではない。こぼれ落ちていく日々の多くの出来事の中にも、伝えられるべき大切なことはある。メディアに対する、自分なりの抵抗でもあり、反省でもあった。