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被災地のために働こうと受けた面接は不採用

 自由の身になったからには、思う存分被災地のために働こうと、復興関連の面接を受けたが、どれも不採用であった。地元の企業をいくつか受けもしたが、やはり不採用であった。

「ここはね、あなたのようなすごい経歴の人が入るようなところじゃないんですよ」

 ある面接官はそう言った。元TBS記者という肩書きは、この地で生きていくには役に立たないだけでなく、むしろ邪魔でさえあった。離れてみて初めて知る、この職業への率直な評価であった。

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 遠い引っ越しで、地方では車も必要だ。貯金はどんどん目減りしていった。考えてみれば、私は勝手に来ただけなのだ。誰に頼まれたわけでもないし、こうして不採用となっているのだから、必要とされているわけでもない。

ほとんどの家屋が倒壊した福島の街 ©iStock

 徐々に塞ぎ込むようになり、誰にも会いたくないと思う日もあった。ようやく決まったのは、小さな写真館のカメラマンだった。自分が描いていたこの街での過ごし方とはだいぶ違っていたが、背に腹は代えられない。

震災の中で日常を生きていた

 カメラを触るのは久しぶりだったが、写真を撮るのは楽しかった。休みの日でも、見知らぬいわきのどこかへ出かけ、シャッターを切った。私たちは可能な限り2人で過ごし、同じものを見た。津波の跡がまだ残る漁港は、人影もまばらで、ただ美しい海がそこに広がっていた。通勤途中の道沿いには、双葉郡から避難してきた人たちの住む仮設住宅があった。

 彼や彼女たちの多くが住んでいた国道6号沿いの家々は、ゲートで固く閉ざされ、常磐線は不通区間があった。避難指示が出ていた小高駅の駐輪場には、持ち主が来なかった自転車が大量に残されていた。隣の隣にある原ノ町駅は、日常を取り戻しつつあったが、3.11で動けなくなったスーパーひたち50号が、まだ留め置かれたままであった。

津波で甚大な被害を受けた中之作港 (筆者撮影)

 日常の中に震災があった。いや、震災の中で日常を生きていた。それを知れば知るほど、いわきで生きていることが、とても大切なことのように思えた。