2011年3月11日14時46分に起こった東日本大震災。10年の節目を迎える今、日本はあの震災からどこまで復興することが出来たのか。
発生当初から「東日本大震災復興構想会議」の議長代理として復興事業に関わり続けてきた政治学者の御厨貴氏(東京大学名誉教授)にきいた。
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御厨貴の「あの日」
―― あの日、先生は何をしていましたか?
御厨 ちょうど大学の研究室に来ていて、廊下に居たらガタガタとすごい揺れが来た。あの頃はヘルメットをかぶるなんて発想もなくて、「人が出られなくなってはいけない」ととっさに部屋の扉を開けたくらいでしょうか。
余震をくり返しながら10分ほどたって落ち着くと、すぐに自宅に連絡しました。幸い、家族は無事だと分かると、これは間違いなく今日は帰れない、電車も止まるだろうと思いましてね。「今日は泊まり込むから」と話をして電話を切りました。そこからはずっとテレビをつけて次の日の朝まで過ごしました。
―― テレビでは被害の状況が逐一報じられました。当時、何が印象に残っていますか。
御厨 その日の印象は、とにかくテレビでやたらと津波の場面ばっかり流れていたこと。当日は特に本当に残酷な映像が流れていました。
通常であれば、プロのカメラマンや編集の手が入ると、あまりにむごい様子はテレビに出てきません。しかしリアルタイムに中継されていたり、現地の映像も限られたためかその場に居合わせた「素人」の動画がたくさん流れることになり、津波がわーっと押し寄せて、人や車が流されていくその瞬間までがずっと映し出されることになったのです。
それを見るにつけ、「津波は怖い、あんなに高いのが来るのか」と強く思いました。もちろん本当に「見た」とは言えませんが、あれが私の「津波を目撃した」瞬間でした。
津波からの復興は50%以下
―― 当初から復興に関わられてきた先生から見て、日本はどこまで立ち直ったのでしょうか。
御厨 津波に襲われた地域では、多くの方々が亡くなられました。こうした地域の復興なくして、全体の復興は語れません。しかし、現状は50%程度の復興に留まっています。
津波は、日本がそれまで抱えてきた問題をえぐるように襲ってきました。被害を受けた東北の沿岸部は、その時点で高齢化や過疎化が進んだ「限界集落」もあり、大都市との格差が広がっていた。そこに津波がやってきて、何もかもを持っていってしまった。
こうした背景がありましたから、われわれが当初被災地に提案したのは「縮小モデルでの復興」でした。残酷なようですが、人口もお金もなくなっていく中では大きな街を作るのではなく、災害を奇貨としてサイズを落としコンパクトな町として再出発した方がいいと提案したのです。