2011年3月11日に起こった東日本大震災から10年。その間、復興に当たってきた歴代政権をどう評価出来るのか。そして、日本政治はあの大災害への危機対応をその後にいかすことが出来たのか。
「東日本大震災復興構想会議」の設置当初から議長代理として復興事業に関わり続けてきた政治学者の御厨貴氏(東京大学名誉教授)にきいた。
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菅政権:×「忘れられないあの言葉」
―― 復興を先導してきた日本の歴代政権の対応を考えてみると、彼らをどう評価できるのでしょうか。
御厨 震災当時の総理大臣は菅直人氏でした。ただ、彼については評価の対象にもなりません。事故直後に原発に勝手に乗り込んだりと、とにかく怒りまくっていただけ。
東日本大震災復興構想会議に関しても、ビジョンをもっていませんでした。立ち上がった2011年4月の当初、私たちに対して彼は「答申は12月に出して欲しい」と言ったのです。「復興政策を作るのにそんな悠長な……」と思っていると、案の定、今度は「中間答申で6月だ」と言い出し、5月の終わりにはまた呼び出して「もう復興の議論はおわりにしてください。6月で答申を出してください」と日付まで6月25日に勝手に決めてしまった。
そのときには「復興会議の後に自然再生エネルギーの委員会を作りますから、そっちで忙しいんで」と言うばかりで、もう彼の関心は復興にありませんでした。彼にとって第一は政権の延命で、再生エネルギーにそれを賭けた面もあったのでしょう。
振り回された記憶ばかりが残っていますが、中でも忘れられない瞬間があります。
6月に答申を出した後、彼が「最後に言っておきたいことはありますか?」と言うので、「あなたの政権のもとで官僚はずいぶん冷遇されてきましたが、彼らこそがわれわれを支えてくれた。彼ら抜きにはこの提言だってできなかった」と話しました。驚いたのは、彼のリアクションです。
「エッ、事務局に官僚が居た? おい、官僚が事務局に居たんだって、官僚にそんなことが出来るの?」
返す言葉もないほどびっくりしました。事務局をイメージしたこともなかったのでしょう。復興会議で近くから見ていた分「駄目なところ」が全部見えた面もあるにせよ、言葉を選ばずに言えば菅さんは発想がまったく場当たり的で「活動家」のままでした。