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 ただ、「みんなでがんばって故郷を取り戻そう!」と一致団結しようとする中で、「前のようにはいかないからスリムな町作りをしよう」といっても、やはり誰も納得できません。結局、「縮小モデルなんて言ったら人が来ない。産業も来ない」と、戦後の日本がやってきたように「大きな街を作って立派な道路を敷いて……」という、高度成長型モデルで都市の再建を図りました。

事故直後からは仮設住宅での生活が続いた(写真は2011年12月2日撮影) ©文藝春秋

 そうしてできあがった町々ですが、やはり問題が生まれています。人が戻ってこないのです。

 東北のある地域で「いよいよ本格的な住宅ができました」と案内された時のこと。そこにあるのは建物だけが建った「誰もいない町」でした。小学校を作ったとしても通う子どもたちがいない。来る予定という公共交通機関も赤字が目に見えている。入るのは高齢者ばかりで、そうした世代も「若い世代が来ないなら出ていく」と言う……。行政は借家化を模索するなど奮闘を続けていますが、そもそも地元の人が入るために復興したわけで、本末転倒になりかねません。

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「復興? 見りゃ分かるでしょ!」

 課題はそれに留まりません。たとえば産業。新しい産業ばかりが問題に挙げられますが、実は古くからの産業も大きな影響を受けています。そのひとつが水産業です。

 地震と津波で海底も地形が変わり、漁場がなくなった漁港も少なくない。「元のとおり港をきれいに再建した、水産加工業のビルもできた」といっても肝心の魚がいない。今まで捕れていたはずの魚が捕れなくなったことで、産業自体の歪みが生まれています。

 東北の役所のインタビューも参加したことがありますが、現場の顔色も真っ二つ。「まちづくり課」などは一様に明るい。やればやるほど道はできる、建物は建つからです。一方、雇用課や産業育成課などは空気が重い。人が来ないし雇用もできない。復興の現状を聞いても「見りゃ分かるでしょ!」と怒られてしまうほどでした。

津波復興のターニングポイントは5年目にやってきた

―― この10年を振り返った時に、ターニングポイントはどこだったのでしょうか。

御厨 よく「建物の復興より心の復興だ」といわれます。もちろん心の復興も重要ですが、最初に大切なのは「目に見える」建物の復興です。建物や工場が再建されると、それを見て「あそこがよみがえった」とみんな元気が出てくるからです。

 その意味では、1年目、2年目は応急住宅。立派な建物もありません。5年目くらいからようやくがれきもなくなって建物が建つようになり、防潮堤も出来た。少しずつ現地も明るくなりました。

「建物の復興」が進んだ5年目には、「人と人をつなぐ復興」を進める出来事も起こりました。熊本震災が起こったのです。