東日本大震災の特徴の1つは、被害があまりに広範に及ぶこと。阪神淡路大震災や熊本地震などは、「被災地」が面積的にもまだ限られていました。しかし、東北3県を中心に大都市から小さな集落まで、3・11の被災地は広大です。復興の水準も格差が生まれ、8割以上戻った場所もあれば、まったく先行きが見えない地域もあるのです。
予想以上に早く震災が「風化」した日本社会
―― それだけの大災害の前後で、日本はどこが変わったんでしょうか。
御厨 私自身、これで日本は変わる、社会全体が変わらざるを得ないと思い、当時は「これで戦後が終わり、災後が始まる」と言いました。復興にどれだけ時間がかかるか分からない以上、これまでのようにどんどん規模を拡大していく高度経済成長モデルは現実には採れません。「創造的復興」と称して、知恵を絞ることを考えたのです。震災直後は、日本中で同じような意識を持った人が少なくなかったのではないでしょうか。
ところが、揺れたはずの東京でも予想以上に早く震災は忘れられてしまいました。
被災からしばらくは停電が続き、東京の街もコンビニさえ灯りを消して22時を過ぎたら本当に真っ暗だった。ところが、1週間もしないうちに電力は戻り、計画停電も過ぎてしまえば途端に「風化」がはじまったのです。「非日常」だった家路の風景も、あっという間に戻っていきました。
これは日本中がそうでした。「原発の状況はアンダーコントロールされている」と首相が国際社会に向かって喧伝し、オリンピックが決まり、万博が決まり……と、「高度経済成長期の夢をもう一度」みたいな世界になってしまったのです。
3・11で得た「財産」とは
―― では、日本はあの震災で何も変われなかったということでしょうか。
御厨 いえ、現場レベルでは大きな変化がありました。
平成という時代は自然災害も多く、阪神淡路大震災の経験者が東日本大震災の被災地に行き、東日本大震災の経験者が熊本に行くようになった。特に大きかったのが、東日本大震災で人材の「レンタル」が一気に進んだこと。役人が被災した現地に入って活躍するようになりました。
熊本地震でも「くまもと復旧・復興有識者会議」に参加した私は、現地で働く職員が「実はレンタルで来たんです」と語る場面に何度も遭遇しました。東北で東日本大震災の復興を経験したため、即戦力の人材として被災地に来たと言うのです。
特に、東日本大震災の場合には国からも人材がやってきました。中には、そのまま根付く人も出てくる。今、東北で「随分と若い副市長だな」などと思って話を聞いてみると、当時レンタルでやってきて復興に尽力した結果、国へ戻っても歯がゆく思うことが多くなり、自分の地元でもないのに戻ってきたというケースがしばしばあります。
こうした人材の交流が一気に進んで経験知が共有されたことは、自然災害の多い日本で「財産」になっています。ただ、そうした危機に対する経験や財産を、日本政治が今回のコロナ禍という危機対応にいかせたのかは別問題。そのことをお話しする前に、これまでの歴代政権の3・11政策を振り返ってみましょう。