それまで「震災」といえば「東日本大震災」だった。それが熊本震災の発生によって、東北の復興経験を九州で生かそうという取り組みが起こり、これまでの手法や筋道を振り返って「これは成功した、あれは失敗した」と落ち着いて整理することが出来た。そうやって経験を“輸出”するうちに、次第に「人と人をつなぐ復興」、ケアが進んでいったのです。
―― 5年目に迎えた大きな区切りですが、その後はどんな変化が続いたのでしょうか。
御厨 10年目の現在、津波被災地はさらなる転換点を迎えつつあります。きっかけは、その防潮堤。被害をくり返さないようにと十何メートルの巨大建造物を建てたわけですが、今になって意見の溝がまた大きく広がり始めているのです。
防潮堤の計画が持ち上がった当時は、「怖さ」が地元でも根強く、多くの人が賛成して建設も突貫工事で進みました。ところができあがってみると、今度は津波が来た恐怖が薄れていき「なんでこんな高いものを建てたんだ。海が見えない、観光振興が進まない」と思うようになった。ついには「こんなに高くする必要があったのか」と後悔する向きも出てきました。
テレビで見ていた私たちよそ者には「あの津波は怖い」という印象が強くあります。だから「どうして」とも思うかもしれません。でも、現実に現場で見た人はやっぱり忘れるんです。忘れなきゃやっていけないからです。風化という意味でも、津波被災地は岐路に立たされています。
しかし、忘れたくても忘れられない被災地域もあります。福島第一原発事故の被災地です。
原発事故からの復興は「それどころじゃない」
―― 福島第一原子力発電所では廃炉の作業が続けられています。
御厨 原子力災害の問題がそのまま残っている地元にしてみれば、それどころじゃない、復興なんてとんでもないと思うでしょう。
原発被害にあった地域の行政の人は、地域から出ていった人を今もちゃんと捕捉して、いつか帰ってくる時のために準備をしています。
では本当に戻れるのか。地元紙の記者に聞くと「たしかに時々帰ってくる人はいます。でも、それは決して簡単じゃない」と言います。お父さんは「自分は帰りたい、子どもを地元に帰してやりたい」と戻っても、お母さんは「絶対嫌だ。都会の生活のほうがはるかに便利だし、戻っても放射能の危険が全くないとは言えないでしょう」と、家庭の中で事実上の「別居状態」がうまれてしまう。子どもは両親の間を取り持とうと行ったり来たりで……なんて家族も、珍しくないと聞きます。
今はまだ被災から10年。「帰還困難区域の住民」は、実際にその土地に住んでいた記憶のある人たちが中心です。ただ、廃炉復興作業はまだ30年、40年と続きます。当時10歳だった子どもが成人して別の地域で暮らし始めたときどうするのか。先行きは見えません。