「殺人者はみんな異常じゃないですか」

 自分を変えるつもりが、麻原という虚像に全てを投げ出してしまったのがオウムということになる。服従することで理想の自分が手に入る。迷うこともない。責任は教祖が担ってくれる。悩みから解放された世界。その特異な空間が現実の世界を変えようと、ある日攻撃を仕掛けてきただけのことだと、ぼくは思っている。

 ところが、攻撃を受けた側では、まったく身に覚えもなければ、恨みを受ける因果もない話だった。人の命を奪わないという最低限のルールと共通認識の中で安全に暮らしている人間からは、理解のできない行為にほかならない。

 そこで、鑑定によってその時の殺人者の内側を探ろうとする。合理的な説明を求めようとする。本当に理非分別能力に欠けていたのなら、社会のルールすなわち法律によって刑事責任は問えないことになる。

ADVERTISEMENT

 物理的な薬物による作用が認められたのが、ハイジャック犯だった。

 そうでないものには、死刑が適用される。

 では、その判断は誰がするのか。

 それが裁判官であり、これからは裁判員ということになる。

 怖いことに、裁判員の中にはハイジャック犯と同じクスリを呑んでいる人も入ってくるかもしれないのだが──。

 3通りの専門家による見解と、刑事責任能力の有無が分かれた鑑定結果から、5人を殺した下関の通り魔には、結局、死刑の判決が言い渡されている。

©iStock.com

 ひとりの被告人にいく通りもの診断、鑑定結果がでてくることが、精神鑑定の不確実さを証明しているようなものだ。

 鑑定結果そのものもどこまで信用していいものか。どこまでが責任を追及できて、どこまでが責任を免れるのか。どこまでが異常で、どこまでが正常なのか。

「それを言い出してしまったら……」

 あるとき、そんな話をしていたある殺人事件の遺族が、ぼくに悲しい微笑みを向けながら、こう言ったことを思い出す。

「そもそも、人を殺してしまう行為からして、殺人者はみんな異常じゃないですか」

 そこに死刑を適用するかどうかの判断が、裁判員に委ねられる時代になった。

私が見た21の死刑判決 (文春新書)

青沼 陽一郎

文藝春秋

2009年7月20日 発売