1999年に起きた下関通り魔事件。犯人はすぐに逮捕され、裁判では刑事責任能力が争われることになった。
公判廷の傍聴席にいたジャーナリスト・青沼陽一郎氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から一部を抜粋して紹介する。(全2回中の1回目。後編を読む)
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下関の通り魔
その男は、検察から死刑が求刑され、弁護側の弁論も終わった最終意見陳述のなかで、
「えっと……、被害者、御遺族の方々に対して、4月中旬に14通の手紙を書いて送りました」
と、言い訳なのか、それとも自慢なのか、よくわからない発言をしてみせた。その14通の手紙も、死刑求刑の直後に書き送ったものだったこともあって、文面はコピーされたようにどれも同じだった。
そして、意見陳述の最後には、思い切ったように傍聴席のほうを振り返って、すみませんでした、と一礼してみせたのだった。
そのとって付けたような態度を見て、「ここで謝るくらいなら、最初からそんなことをするなよ……」と、呆れて思ったことを記憶している。彼はたったひとりで5人を殺し、10人に重軽傷を負わせているのだ。
男の名前を、上部(うわべ)康明といった。
99年9月29日午後4時25分頃、山口県下関市のJR下関駅東口の歩道から、レンタカーに乗った上部は、そのまま駅玄関ガラスドアをぶち破り、駅構内コンコースに突入。歩行者を次々に撥ね飛ばしていく。そして、あるところで車を停車させると、助手席に用意してあった刃渡り約18㎝の包丁を手にして車を乗り捨てる。そのまま奇声をあげながら改札口を通り抜けて駅ホームに駆け上がると、今度は電車を待つ人々の頭や胸に次々と切り掛かった。帰宅途中の高校生や買い物帰りの客で混み合う下関駅はパニックとなる。この一連の出来事で、当時58歳と80歳の女性が車に轢かれて死亡、6人が重軽傷を負う。ホームでは刺殺行為によって3人が死亡、4人が重軽傷を負った。その後、駅から逃走することもなく、力を出し尽したようにホーム水飲み場前にいた下関の通り魔は、山口県警の鉄道警察隊員によって取り押さえられた。(編集部注:下関駅は2006年に放火により駅舎が焼失。現在は建て直されたもので駅の構造が異なる)
折しも、池袋通り魔事件の発生から3週間後のことだった。