1999年に起きた下関通り魔事件。犯人はすぐに逮捕され、裁判では刑事責任能力が争われることになった。
下関の通り魔・上部康明の犯行に至るまでの経緯をたどっていくうち、ジャーナリスト・青沼陽一郎氏はこの頃の死刑相当事犯たちの奇妙な共通点に気がついたと語る。著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。前編を読む)
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異国への憧れと窮状
この下関通り魔の経歴や犯行に至るまでの経緯を、池袋のケースや全日空機ハイジャック犯と比較しながら見てみると、興味深い。
一浪して九州大学に入学した上部は、受験からの解放感もあり、友人を作って遊ぼうと考えていた。しかし、相手が自分のことをどう思っているのか、視線が合っただけで、相手が自分を嫌っているのではないかという不安から友達ができず、対人恐怖症ではないかと考えるように至る。大学卒業後は、人間関係を嫌って1年間就職もせず、精神科に通院しながら、建設会社やコンピュータソフト会社などで働いたが、いずれも長続きしなかった。その後92年に一級建築士の試験に合格、93年福岡市で事務所を開業するが、97年には廃業状態に陥り、妻の収入や実家の仕送りで生活を送るようになった。自分を情けないと思い、嫌悪し、周囲の人たちは自分を軽蔑していると思い込み、いら立ちを募らせていく。
そしてここに、異国への憧れが芽生える。
妻との新婚旅行で訪れた地がニュージーランドだった。仕事もうまくいかなくなった彼は、妻とニュージーランドへの移住を計画。英会話の勉強もはじめる。
98年2月には山口県の実家に戻り、99年ローンで購入した軽トラックで運送業を営みはじめた。ところが単身ニュージーランドに渡っていた妻が同年6月に帰国すると、離婚を申し出てきた。精神的な支えを失ったところへ、同年9月、台風18号が到来、運送業に使っていた軽トラックが冠水し、使用不能となってしまった。仕事への意欲も失い、みじめな状況から抜け出すには、ニュージーランドへの渡航だと考えた。そこで、車のローンの肩代わりと、移住費用の借用を父親に申込んだが、これを拒否される。その上、ローン返済のために、実家の車で運送業を続けるように説得される。
彼は自殺を思い立つが、同時にこうも考えたという。