死刑相当事犯の奇妙な共通点
そして犯行直前には、多量の睡眠薬を服用して、決行に至っている。
ぼくの見てきた、この頃の通り魔事件なり死刑相当事犯というのは、どこかしら奇妙な共通点がある。
機会があれば、またそうした検証を試みたいと思うが、ここでごく簡単に断言してしまえば、こういうことになる。
最初に社会や組織、集団に適応できない個人としての存在がある。そこに苦しみを感じる。しかし、社会は決して自己に対して適応しようと変わってくれるものではなかった。それこそ、母親の胸のうちにあり、父親の経済的庇護の下にあった子どもの頃であれば、家族という最も小さな世界の側が包み込んで融通していてくれたからよかった。それが大人になると、父も母も離れていく。世界が変わらないのであれば、自分の側が変わるしかない。そこで診療を受け、あるいは修行によって、自らを変えていこうとする。時にはクスリの力にも頼る。内側を変えようとする。それでも、思ったような自分にはなれずに悩む。社会的に優位に立てると信じた学歴には裏切られ、あるいは学歴がないことをその原因のひとつと考える。異性への憧れも異国への逃避行にも裏切られた。変わろうとした努力する自分に罪はない。あるところまでいって、自己が変化することに頓挫したとき、究極の変革は自分を失うこと、すなわち自殺にあると知る。それが苦しみからの解放である。どうせ死んで無くなるならば、最後に世界の側に働きかけることで、今ある環境に手を加えてみようとする。世界に向かって自分の存在を確かめようとする。攻撃性は自己変革の失意がもたらした命の取引である。どうせ最後なら、世界の変革へと挑み、人を傷つける。受け入れてくれない社会を、自分とは違う他者を変えようとする。平等に同じ失意の痛みを味わわせる。他者であれば誰でもいい──。
2008年6月に発生した、秋葉原の通り魔事件だって、下関の事件と基本的には同じパターンだろう。
車で人通りの中を疾走して殺し、刃物を持って通行人を追い回す。そして、その場で取り押さえられて観念する。ぼくにいわせれば、同じことを繰り返しているに過ぎない。