2011年3月11日――。未曽有の自然災害はおよそ1万6000人もの人々の命を奪った。あの日を境に、これまでの生活や人生観が一変したという人も少なくないだろう。当時石巻市で中学教員を務めていた平塚真一郎氏もそうした経験を持つ一人だ。

 ここでは『きみは「3.11」をしっていますか? ~東日本大震災から10年後の物語~』(小学館)より、同氏の執筆箇所の一部を抜粋して紹介。お世話になった先生、教え子の児童、顔をよく知る地域の人、そして自身の長女……。身の回りの大切な人たちが一瞬のうちに帰らぬ人となった教員は、震災を経てどのような考えを抱くようになり、そしてどのような教えを説くようになったのだろうか。

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色のない世界

 2011年の僕の記憶には色がありません。

 きっとあの年も、寒い冬を越えて、暖かい春が訪れ、花の色や木々の緑が鮮やかだったに違いないのです。桜の花も咲いていたことでしょう。それでも僕の記憶にあるのは、まるで戦争の跡のような殺ばつとした風景と、ただただ暗い地面の色、そしてほこりっぽい空気の感覚だけなのです。

 震災後しばらくの間、長女の小晴は見つかりませんでした。

 娘が通う石巻市立大川小学校では、74名の児童と10名の教職員の尊い命が失われました。そして大川小学校の周辺では、その倍以上の数の地域の人も、尊い命を落としました。

 震災後まもなくの頃は、遺体安置所をめぐり、娘の影を探しました。安置所にはブルーシートが一面に敷かれ、その上に、100体近くのご遺体が無造作に置かれていました。確認作業は、その一体一体の顔をのぞき込んで行います。中には、お世話になった先生のご遺体や、顔をよく知る地域の人のご遺体が含まれていました。普通では考えられない状況でありましたが、娘を探すことで精一杯で、とにかく必死でした。

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 ご遺体の中には、震災のちょうどひと月前に、スキー教室に一緒に行った大川小学校の児童の姿もありました。その女の子とは、面識があったわけではなかったのですが、たまたまリフトで一緒になり、そのリフトに乗っていたわずかな時間に彼女は、スキー教室に一緒に来ているお姉ちゃんのことや家族のことなど、いろいろなことをちょっとはにかみながら話してくれました。短い時間でしたが、なんだか心が温かくなり、幸せな時間として鮮明に記憶に残っていました。その子との再会が、遺体安置所になってしまいました。それまで娘を探すことに必死で、ピンと張りつめていた心の糸が、ふっと緩み、涙があふれてきました。彼女にとっての日常も、いともたやすく奪われてしまったのです。感傷にひたる間もなく、涙をぬぐいながら、他のご遺体の顔を確認していきました。

 そんなことを繰り返す日々でした。

「こんな苦労、苦労のうちに入らない」 

 娘の死を知ってからも、避難所になっていたI中学校に戻り、泊まり込みで運営にあたりました。「娘さんがそんなことになっているのなら休んでもいい」と上司の先生は言ってくれましたが、被災地全体が大変な状況であることに変わりはなく、公務員として、ひとりの人間として、自分がやるべき役割を全うしたいと申し出て、運営に加えてもらいました。

 震災から数週間はガソリンが不足し、なかなか手に入らなかったので、節約のため、自宅からI中学校までは、片道20㎞キロメートルの道を自転車で通いました。向かい風がきつくて自転車がなかなか前に進まないこともありましたが、娘のことや震災によって大変な思いをしている人のことを考えると、「こんな苦労、苦労のうちに入らない」と自分に言い聞かせ、ペダルをこぎました。