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無常観と生命の軽視

 大西はヤクザになる以前から凶暴だった。

 高等小学校では教師を文鎮で殴りつけ、即日退学処分。職人となってからも、多くの暴力事件を起こしている。なかでも16歳の時に呉市広の食堂で起こした事件は地元の不良たちを震撼させた。軍人と諍いとなった大西は刺身包丁で腹部を刺したのち、相手の耳をそぎ落としてしまうのである。

 ヤクザ組織の入社人事は堅気の会社の基準を180度ひっくり返したものだ。過去の事件は、それが暴力的であればあるほど輝かしい経歴になる。大西はこの事件であっという間にシード選手となった。ドラフト会議では常に1位指名であり、彼を欲しがる組織はいくらでもあった。

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 大西を獲得したのは、呉の土岡組である。山陽道の博徒社会では、「西の籠寅(現合田一家)か東の土岡」と言われ、大西が進むには順当な進路といえた。しかし、日本は戦争に突入、大西もまた中国戦線に送られ、大物ルーキーの活躍はしばらくお預けとなった。

 戦争はこのルーキーをさらに磨き上げたと言ってよかった。一説によれば、大西が切り捨てた敵兵は二桁を軽く超すと言われる。殺人を正当化する戦場という異常な空間が、大西の凶暴性を加速させたのだ。

 処刑も決まって大西の役目だった。嫌な役目を仲間にさせたくないという大西流の思いやりである。

 捕虜は迫り来る死を悟り必死に抵抗した。

「ええか、苦しまんよう一発であの世に送ってやるけん」

 言葉など分かるはずもないが、大西は必ずそう声をかけ、それを合図に日本刀を振り下ろした。捕虜の首が飛び、大動脈から噴水のように血しぶきが噴出した姿を見て、大西の心に無常観と生命の軽視が生まれていった。殺してもなにも感じない。まさに異常な心理である。

 殺戮を繰り返したベトナムの帰還兵が心の病を認められるなら、大西とて同様だった。ただこの時代にはセラピーなどという気の利いた言葉も、トラウマという観念もない。原因は顧みられず、大西は殺人鬼と片づけられただけだ。

人の命などまるで虫と同じ感覚

 復員後、土岡組に戻った大西はその凶暴性を存分に発揮した。他者の命も、そして自分自身の命も鴻毛(こうもう)の軽きとなす。人の命などまるで虫と同じ感覚だから、死にたくなければ逃げるしかなかった。抜けば刺す。構えれば撃つ。そこには駆け引きもブラフもまったくないのである。時に無鉄砲な人間が勝負を挑めば、その度にひどく凶暴なやり方で徹底的に打ち据えた。映画館の警護で行った不良狩りでは、同じ土岡組の人間すらその残忍性に肝を冷やした。