ドラマや映画における刑事弁護人は、冤罪を押し付けられている被告人の無罪を獲得するために奔走する“正義の象徴”として描かれることがほとんどだ。しかし、現実には被告人が既に罪を認めており、その弁護を担当するというケースも決して珍しくない。それだけに「刑事弁護人はなぜ犯罪者を守るのか」といった批判や疑義を投げかける人も現れる。

 そうした声を当の刑事弁護人はどのように考えているのだろうか。ここでは大阪府警GPS捜査違法事件や風営法ダンス営業規制事件、タトゥー彫り師医師法違反事件など、さまざまな事件で弁護人を担当してきた弁護士の亀石倫子氏、ライターの新田匡央氏による共著『刑事弁護人』(講談社現代新書)の一部を抜粋。“刑事弁護人”としての彼女の矜持を詳らかにする。

◇◇◇

ADVERTISEMENT

刑事弁護人として

 1974年6月に北海道小樽市に生まれた亀石は、小説家で翻訳家の伊藤整、映画監督の小林正樹、お笑いコンビ「極楽とんぼ」の加藤浩次などを輩出した小樽潮陵高校を卒業した。都会に憧れて東京女子大学文理学部に進学する。だが、そこからの4年間は「暗黒時代」だった。都会育ちの裕福な家庭で育った「お嬢様」たちに囲まれて怖気づき、何かに挑戦する勇気が持てなかった。親しい友人もほとんどできず、孤独だった。

 大学の4年間で手にしたのは、自分に自信が持てず、田舎者が東京に負けた敗北感──そんな思いを抱えて小樽に戻る。就職は、大手通信会社の札幌支店に決めた。小樽から長距離バスで通勤する毎日を送るが、ここでも環境になじめなかった。

 総合職で採用されたのに、女性だけ制服があった。入社してそれを見たとき「辞めたい」と思った。大人になってまで、人に決められた服を着るのが我慢できなかった。しかも、20代の若手と50代のベテランが同じ制服を着ている。自分が50代になったときに制服を着て仕事をする姿が想像できなかった。

「どうしてあなたはみんながやっているのにやらないの?」

 毎朝、職場の社員全員で行うラジオ体操も意味がわからなかった。上司に呼ばれ、「どうしてあなたはみんながやっているのにやらないの? どうして職場の和を乱すの?」と怒られた。周囲はみな、文句を言いながら従っていた。会社にいたら、おかしいと思っても黙って従う人間になりそうで怖くなった。2000年12月、同僚との結婚を機に3年8ヵ月の会社員生活を離脱。年内には、夫の勤務する大阪に移った。

©iStock.com

 亀石は、仕事そのものは好きだった。望んで退職したものの、無職になる気はなかった。リクルートなど数社に中途採用の履歴書を送ったが、面接すらしてもらえない。少しは名の知れた東京の大学を出て、大手企業に3年8ヵ月勤務したところで、即戦力にもならなければ、第二新卒として期待もされない。

 目標を、資格取得に切り替えた。大きな組織の中で、いてもいなくてもいい歯車の一つになるのではなく、自分の仕事が社会の役に立ったり、人に何かを伝えられたりする仕事に関わりたいと考えるようになったからだ。