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死刑執行日に出す予定だった妻への手紙に「これからもよろしく」と 地下鉄サリン事件犯たちの“最後の言葉”

『死刑囚200人 最後の言葉』より #1

note

「自分で歩いていきます」

 7月6日、広島拘置所で執行されたのは中川智正(享年55)。中川の故郷は広島に近い岡山県である。

 中川とは京都府立医科大在学中からの知人で、支援を続けた俳人、江里昭彦氏は遺族とともに8、9日の両日、中川の遺体と対面したという。

 江里氏が明かしたところによれば、執行のため広島拘置所の居室から出された中川は、職員に「体に触れなくてもよい。自分で歩いていく」と断った。また控室に用意された菓子や果物には手をつけず、お茶を2杯飲んだ。

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「支援者、弁護士に感謝しております」

「自分のことについては誰も恨まず、自分のしたことの結果だと考えている」

「被害者の方々に心よりおわび申し上げます」

 中川の死亡確認時刻は午前8時5分だった。

 福岡拘置所で執行された、最年長の早川紀代秀(享年68)については、直前の情報がない。ただし、6月7日、執行の予感を感じ取ったのか、次のような手記を書き残している。

©iStock.com

「国民が殺生のカルマ(業)を負うので、(死刑は)やめるべきと思います」

「自分では1人も殺していない者が死刑で、自分で2人も殺している者が無期というのは、どうみても公正な裁判とは言えません」

「申し訳なさは、事件発覚から3年たった今も薄れることはありません。真理のため、救済のためと思って戦い、テロを実行して得られたものは苦しみと悲しみでした」

 先に執行された7人とその順序は、おそらく事件における責任の重さを法務省が判断した結果であったのだろう。だが、先に執行されるのと、後に執行されるのでどちらの苦しみが少ないのか、それは分からない。

現金を災害義援金として寄付

 7月26日、東京拘置所では豊田亨(享年50)と端本悟(享年51)、広瀬健一(享年54)の3名が執行された。

 東京大学卒業者として初めて死刑囚となった豊田は、ノーベル賞も夢ではないとささやかれたほどの秀才だった。豊田は7月6日に麻原らの執行があったことを知ると、自身の執行も近いことを悟り、所持していた現金はすべて、匿名で西日本豪雨の義援金として寄付している。執行の直前、支援を続けてきた友人と面会した際、豊田はこう語ったという。

「日本社会は誰かを悪者にして吊し上げて留飲を下げると、また平気で同じミスを犯す。自分の責任は自分で取るけれど、それだけでは何も解決しない。ちゃんともとから絶たなければ」

 自分が元気でいるということ自体が被害者を苦しめるとし、一切情報発信の類を控えていた豊田は、最後もひっそりと死刑を受け入れた。

 端本悟は、再審請求をしていなかった。麻原の死刑を知ったとき「私は命乞いのようなことはしたくない」と支援者に語り、静かに死を受け入れた。

 早稲田大学理工学部応用物理学科をトップで卒業した秀才の広瀬健一も、公判中に完全に教団を離れていた。近年はなぜ自身が入信し、事件に関与したのかを検証する手記をまとめていた。自分自身ができることは「教訓」を残すことしかないとの思いからであったと思われる。