1995年3月、地下鉄サリン事件が世間を震撼させた。事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、やがて教団の犯した事件に関与した信者が次々と逮捕された。

 その中には、逮捕された順番と時期によって判決が分かれた者たちもいた。そうした判決までの公判廷の傍聴席にいたのが、ジャーナリストの青沼陽一郎氏だ。判決に至るまでを描いた青沼氏の著書『私が見た21の死刑判決』(文春新書)から一部を抜粋して紹介する。(全2回中の2回目。前編を読む)

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 それから、検察官の取り調べが並行して行われるようになる。それ以来、警察の調べには応じなくなった。検察も暴行のあったことを警察に注意してくれたとする。横山にしたら、優しく映り、救いだったのだろう。

 それでも、検察官の取り調べにも最初は黙秘したり、調書の作成を拒否していた。ところが、その検察官の口調も時間が経つうちにだんだん厳しくなっていき、調書をとらないと起訴に間に合わないと、せっつかれるようになった。

「検察とケンカ別れしたら、警察の取り調べがはじまると思ったので」

 調書の作成も、他の共犯者の取り調べが済んでいて、話を聞く前から作文が出来上がっていた。ここにサインをしろという。サリンの毒性の認識もなかったのに、そこにはサリンは毒ガスであり、殺人の為に使用されると認識していたとする記載があった。そんな調書を認めることは、本意ではない。それでも、調書にサインをした。

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「検事さんと話していて、調書にサインすれば全部終わると。それでも教祖のことが気掛かりだったんで、教祖の名前は出したくない、法廷にも呼ばれたくないと、言ったと思いますけど、そうしたら検事さんが強い口調で、『それは絶対にない。教祖の法廷に呼ばれることは絶対にない』と。検事さんが約束してくれるなら、調べにも応じるし、調書のサインにも応じると。検事さん、絶対約束は守ってくださいと、その時に言いました」

 ところが、だった。現実には、麻原の法廷に横山も検察側の証人として呼び出されていた。そのとき、横山は相当悔しかったのだろう、証言を拒否して鼻水と涙を、ただひたすら流して、証言台の前で泣いているばかりだった。